『マッドサイエンティストの手帳』223
●追悼 桂歌之助師匠
新年早々、わが畏友・桂歌之助師匠が逝去。
新年最初の話題にはふさわしくないかもしれないが、いや、歌やんだからこそという気もする。
1月2日の昼ごろ、ちょっと外出している間に留守電とFAXが続けて入った。
メールでも知らせが来た。
桂歌之助師匠の訃報である。
ええっ、まさか……順調に回復状態にあったんじゃないのか、というのが正直な思いである。
1月2日午前2時過ぎに死亡。
体調悪化と手術のことは3月ほど前に聞いていた。ただ、手術は無事に終わり、退院というか、通院しながらの療養だったはず。薬の副作用でちょっとイライラするから、「見舞いに来て貰ってもいい程度になったら連絡する」と、これはかんべむさしを通じての本人からの伝言であったのだ。
慌てて何ヶ所かへ電話。年末から容態がおかしくなっていたらしい。
本日と明日、サンケイでは「最後の」米朝独演会。そんなことも想像すると気が重くなる。
3日の朝刊に訃報。
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●桂歌之助氏(かつら・うたのすけ=落語家、本名北村和喜=きたむら・かずよし)は2日、食道がんで死去、55歳。通夜は3日午後6時、葬儀は4日午前11時から大阪府吹田市桃山台5の9の千里会館で。喪主は妻維久子(いくこ)さん。自宅は同市山田西1の31のB1003。
67年桂米朝に入門。「茶の湯」「善光寺骨寄せ」などの噺(はなし)を得意とし、百演目を語る「歌之助百噺」を7年がかりで00年夏に達成した。
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3日午後、米朝独演会へ。……米朝師匠、「新聞にも出たことですから」と、この話題に触れられた。昨年の志ん朝、それに志ん生、円生の死にも触れて、自分の場合は「(円生はパンダと同日だったので、記事がパンタ゜より小さかった)……案外、同じ日にビンラディンが死んだりして」
その後が人情噺系の『帯久』だったので、こちらの気分的負担が軽くなる。さすが人間国宝の話芸である。
独演会終了後、千里会館の通夜へ。仁鶴師匠や桂三枝さんの顔も見える。
4日、告別式。会場に入りきれないほどの参列者で、長い焼香の列が出来る。
米朝師匠の弔辞は、落語とはちがって、何度か絶句された。「弟子はこれで5人先に逝った」……孫弟子も入れると、音也、米太郎、米紫、枝雀、歌之助ということになるのか。
歌やんには子どもがいない。それだけに聡明な維久子夫人の寂しさを想像すると本当に辛い。……弟子はひとり、桂歌々志くんで、息子といっていい年齢である。席も焼香も「遺族」の立場であって、この配慮はいいなあと感じた。
このホームページにも歌やんのことはずいぶん書いてきた。
以下「歌之助」「歌やん」「歌コ」などが混在する。
まず病気のことか。
1997年2月に膵炎で入院中の歌やんを見舞いに行った。この時「弟子志願者」として付き添っていた青年がいた。横田純一郎くん、歌やんが一時目指していた「建築科」出身の秀才である。
1997年5月9日、横田くんは正式に弟子入りして、歌之助復帰独演会で、桂歌々志として前座をつとめ、これが初舞台である。
そして、膵炎後、歌やんは酒を断ったが、これ以来、酔っぱらいの話がますます上手くなった……これはファンの共通意見である。
歌やんといえば「大惨事」である。独演会をやるとどこかで大惨事が起こる。
このことは、
1997年8月31日の「ワッハ上方」レポートに書いているが、われながら傑作と思うのは、この歌エピソードをホラーSFにした『笑いの崖』である。……できればこのホームページにアップしようか。
歌やんは作家の創作欲を刺激するところがあるらしく、かんべむさしも長編を書いている。
『泡噺とことん笑都』に出てくる桂朝之助は明らかに歌之助がモデルである。他に「桂双之助」が出てくる作品も。
新聞の訃報にある「百噺」は、
2000年7月25日に完結した。コンコルド墜落という付録つきである。
以上は、本ホームページ記載関係だが、桂歌之助師匠とはじめて会ったのは、もう20年以上前である。梅田地下街・泉の広場から地上に出て30メートルほどの路地裏に「ふみの」という酒場があった。バアさんふたりでやってる、ともかく安い名物居酒屋である。米朝一門のたまり場になっていて、大融寺の勉強会のあとなどによく集まった。かんべむさし、小佐田定雄、桂吉朝、桂雀松さんたちといっしょだった。
歌やんは、当時から仲の良かった朝日の田中三蔵記者といっしょに入ってきた。
ちょっと目つきの鋭い顔つきで、ともかく読書家であることと頭の良さは、ちょっとしゃべっていると直ちにわかった。
不思議なことに、この日から、太融寺の歌やんの会にも通い、よく一緒に飲むようになる。
「なぜそんなに合うのですか」と聞かれたことがあるが、歌やんが無理してこちらに話を合わせてくれた感じはない。強いていえば「理系センス」ではないかと思う。……はっきりいって、ハードSFを読んでちゃんと意見を述べてくれる落語家というのは珍しい。
その後しばらくして、歌やんのご父君が勤務されていたある研究機関とは、ぼくの仕事での縁が深く、歌やん入門当時のご父君の動揺ぶりを別の研究者から聞くことになる。そりゃ、まじめな研究者にとって、東京工大の建築を目指していた自慢のひとり息子が、とつぜん米朝一門なんだものなあ……。
歌之助さんの「学究肌」の秘密を知った思いであった。
さらにその後、歌やんのために『超伝導根問』というSF落語を書いたのだが、これ以来、「理科年表を持っている噺家」なんて歌やん以外にいないのではないか。
理系センスとか頭の良さ……これは落語家にとって、必ずしもいい方に作用しないのかもしれない。「理屈いい」の面があるし、噺によっては「虚構」に乗り切れないという気配が感じられることもある。ただ、こんな面がSFファンに受けるところがあって、意外にSFファンの中に支持者が多かった。
吹田でのSF大会のパネルにゲスト参加してくれたことがあるし、1995年8月の浜松でのSF大会「はなまこん」では、メインホールで落語をやった。……あ、この時はぼくが『地震麻原』というのを書いたのだった。これは台本の出来映えいまひとつ。しかし、その後の『夏の医者』は大受けだった。
……などと、思い出は尽きない。
あと、ふたつ書いておこう。
歌やんの芸風は、きっちりとした語り口で、古典が安心して聴けた。が、なんというか、すごいムラがあった。ムラというのは、出来不出来が大きいということで、あまり適切ではないか。ある水準できちんと語るのだが、時々化ける、それも神がかったような出来映えの時があるのである。……ぼくの体験した例でいえば、太融寺のやけくそ5日間だったか、3題噺の題を募集して翌日に演じる趣向、これをやっていた時の1日。三題噺と古典の一席ずつを演るのだが、この時の『三人兄弟』……これがもの凄かったのである。道楽者の三兄弟が女郎買いに行くという、まあひどい噺だが、この三人の克明な性格描写から始まって、末弟の長い長い妄想場面、もう、涙が出てくるほどの大笑い。これは大げさではなく、この時に聞いたメンバー30人ほど、仲間内では今も語りぐさになっている。……こうした「大化け」は、枝雀師匠もざこば師匠も、それぞれ別の席で指摘されたことがある。林信夫さんも昔そんなことをいったことがある。……この神懸かりはコントロールできなかったのだろうか。落語家は50歳からといわれるのは、案外コントロール技術のできてくる年齢なのではないか。やっぱり若死であるなあ。
もうひとつ惜しいのがその文才である。読書家であることは有名であり、また文章もうまかった。朝日新聞はじめ、何紙かにエッセイを連載したことがあるし、プログラムはいつも自分で書いていた。……芸風もだが文章の面でも、歌やんは米朝師匠の知的側面を継承するひとりとにらんでいたのである。なんとか著書のかたちで残せなかったか……じつは、葬儀のあと、某友人が教えてくれたのだが、ある出版社である企画が進んでいたらしい。内容は明かせないが、歌やんもやる気でいた。昨秋の話であるから、歌之助師匠自身、病魔の侵攻がこんなに早いとは考えていなかったのだろう。
この企画だけは残念だ。
……なにか「偲ぶ会」のような企画があるかもしれない。
その時はまた報告したい。
※その後、2002年4月1日に太融寺で追善落語会。
2002年7月25日にアイル・モレコタで「歌之助さんを偲ぶ会」が開催されました。
また2003年12月には遺稿集『桂歌之助』が刊行されました。
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