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5月14日(水) 大阪←→播州龍野
 早朝の電車で播州龍野へ移動する。6時の大阪、晴れて明るい。夏至が近いのである。
 9時前に実家着。雑事色々。ひとりで1日では到底片づかない。
 龍野書斎に座ってられるのは1時間くらい。庭の雑草を眺めるだけで、仕事にならず。
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 1年でいちばんいい季節というの。嗚呼。
 やはり1週間くらい、こちらで独居するスタイルにしないとなあ。
 夕刻に近い午後に帰阪。
 播州龍野「通勤」は疲れるだけだ。

5月13日(火) 穴蔵
 晴。好天なり。
 穴蔵の模様替え、最終バージョン。コタツの布団を取っ払い、洗濯、ベランダに干す。
 冬物衣類も洗濯。すべて専任料理人洗濯婦の命令。今日を逃すと、またしばらく天気が不安定らしい。
 こちらは床掃除と本の片づけ。
 だらだら作業で、結局、終日穴蔵。
 10月半ばまでは、このまま夏仕様で過ごせそうな。

5月12日(月) 穴蔵
 曇天。しだいに雲が薄くなり、昼前には晴れてきた。
 播州龍野へ行こうか迷っていたが、タイミングが悪い。
 結局、終日穴蔵。

『伊藤典夫評論集成』(国書刊行会)
 大著である。厚み(1200頁+検索頁)と重量も大著だが、これは(翻訳書以外では)伊藤典夫氏の唯一の出版になる可能性が高く、SFでは本年度の最重要出版物であることは間違いない。
 じつは、現在、こちら(穴蔵)の本をどう整理するか思案中である。
 50年代末から今世紀までの伊藤典夫氏の文章集成の内容は、ざっと目次を見ただけで、私のSF精神形成の大部分に影響していることがわかる(そして、私よりもう少し若い世代のSFファンにとっては「生き方」にまで影響したのではないか)。
 この1冊、穴蔵のSF蔵書「数百冊」と入れ替えておつりがくるほどの大著である。
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 精神形成への影響は大きくふたつある。
 第一に……日本のSF成立の事情だが、1960年のSFマガジン創刊からの10年間、海外SFが多く翻訳出版されたが、それらは主に英米の50年代の名作群だった。書名はあげないが、ハヤカワ銀背の最初の百冊といえばいいか。最初に名作群に接したことで、日本SFは非常にレベルの高いジャンルに成長したと思う。だが、不思議なことに、日本の50年代、最新の、つまり60年代の海外SFがほとんど翻訳されなかったのである。極論すれば、日本SFは英米に10年遅れてスタートしたといえる。
 この10年のギャップを(ほとんど)ひとりで埋めようと試みたのが伊藤典夫氏だった。そのメインはSFマガジン連載の「SFスキャナー」で、ここで紹介される最新の海外SFとSF界の動向ほど刺激的な記事はなかった。
 私自身についていえば、50年代SFはむろん面白かったが、スキャナーで紹介される海外SFについて、さらに(勝手に)想像を広げて(勝手に)また見ぬSFに感動するほどだった。(後年、翻訳された「実物」に接して、期待外れはめったになかった。極めて正確誠実な紹介だったのである。)
 私がどんな影響を受けたか。それはこれから再読して検証するつもりだが……たとえば拙作「太陽風交点」のタイトルは「アインシュタイン交点」の影響かといわれたことがあるし(いわれてみればそうかも)、自分ではテーマとタイトルの一致で気に入っている「熱の檻」は伊藤さんのニューウェーブ紹介(「宇宙の熱死」と「リスの檻」)からの発想か、など、タイトルだけでこれである。オールディス「ノンストップ」紹介には焦りまで覚えた記憶がある。検証すればまだまだあるはず。
 要するに「未訳の最新SF」に先を越されたくない(がんばって書いてみたら海外では古びたアイデアだった、というのが怖い)気持ちで読んでいたのだが、これを救ってくれたのも伊藤さんの解説だったような気がする。
 SFスキャナーだけでこれだから、他の多くの評論をざっと眺めるだけで恐ろしくなると同時に、これからの大きな楽しみである。
 精神形成の第二。これはSFファンとしての影響である。
 巻頭の方に、ファンジン(主に宇宙気流)のSF大会レポートなどが収録されているのがうれしい(来阪された時の「T.P.潜入記」なんて忘れていた)。
 これは伊藤氏のSFファンとしての活動を代表するもので、その後のファンジンの記事の原型ともいえる。プロとファンが未分離なこの時代(60年代)の伊藤氏の活動はSFファンの理想像であった。プロとしての仕事(翻訳)とファン活動(SF大会参加やファンジンへの協力)を両面を楽しみながら(と見える)こなす伊藤氏の姿に憧れたファンは多く、特に海外SFファンの学生に多かったのではないか。海外SF研のメンバーなど(附録に水鏡子氏の文章が収録されている!)、影響は私のレベルではなかったはずだ。それらは次の何代にも引き継がれ、今もSF界に影響していると思う。
 プロとファンダムの距離感というのは(他のジャンルとちがって)独特だが、私はSFの美点だと思っている。(専業作家という経験のない)私なんぞは、今でも自分は「SFファンの古株」だと思っている。
 文章には残っていないが、(上京した時に会って)個人的に受けた恩恵(海外SFに限らない色々な情報や見解)は計り知れない。
 この本、せめて10年ほど早く出してほしかった。
 これから少しずつ再読するつもりだが、楽しめるのはあと2年ほどのような気がしてならない。

5月11日(日) 穴蔵
 晴。日曜なので人出を警戒、外出は見合わせる。
 終日穴蔵。
 ほとんど読書で過ごすが、気になる本が見つからず、「発掘」に半日かかってしまった。
 たちまち夕刻。
 本日は母の日で、まあまあのご馳走が並んだ。専任料理人が自分で祝っておる。
 こちらはお祝い申し上げる立場ではないので、ありがたくご相伴にあずかり、ワインを少しばかりいただく。
 長男ファミリーから届いたカーネーションが開花し始めていた。
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 うちには4日ほど前に届いたのだが、専任料理人が昼間エレベーターでいっしょになった宅配のニイちゃん、今日は「母の日荷物」が多すぎて悲鳴をあげていたらしい。
 世間は不況どこ吹く風であるなあ。

5月10日(土) 穴蔵
 曇天。午後は晴れの予報だったが、はずれ。
 終日穴蔵。
 午後30分ほど散歩。近所ビルの前にバラが開花していた。
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 次の晴れた平日に中之島のバラ園まで行ってみるか。

『星群 95』星群の会
 『星群』の特別号。星群は創作系SF同人誌では今やいちばん歴史があるのではないか。私も70年代から星群祭に参加してきたから、半世紀以上のつきあいになる。その最新号。
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 編集前記に「(この号は)原点回帰を目指し全編SF特集とした」「あえて狭義のSFに近いものを掲載」とある。
 目次に並ぶ顔ぶれも、多くは70年代から活動を続けているメンバーである。
 さすがに皆さんうまい。ほとんどが商業誌に載った経験あったり、別ジャンルで著書があったり、いまさら「うまい」なんていうのは失礼なのだが。むしろ「原点回帰」というだけあって、どこか懐かしさを感じさせる。それは、今風の新型ワイドスクリーンバロックとでもいうのか、AIをはじめとする最新の題材を過剰に詰め込む雰囲気がなく、テーマが絞り込こまているから「警戒感」なしで読める。わが年齢になると、設定の理解にばかり気を取られるのは疲れるのである。
 深田亨さん、雫石鉄也さんのショートショートはいずれも名人芸。
 短編では中西秀彦「秘密の入江」と石坪光司「泡の影」が突出している。
 この2編、大富豪が秘密裏に進める最新技術の実用化実験をあばくという設定で共通しているが、展開はまったく対照的。
 中西作品は、たまたま出会った謎の豪邸に住む美少女に恋愛感情をいだいた少年が、少女を助け出そうとする青春アドベンチャー。
 石坪作品は、富豪の執事だった老人を「調査員」が別荘に訪ねてきて、暮れゆく海をながめながらの静かで緊迫した会話劇。そこでしだいに富豪が行った「秘密実験」の背景が明かされていく……。
 ともに読ませる。しかも「大富豪の秘密実験」という大時代な設定に見えて、今のイーロン・マスクを考えると、意外に現代性を感じさせるのである。
 岡本俊弥さんの「惑星暗闇の森」は、鳥になった(らしい)ぼくが、分身(らしい)ユニットと会話しつつ、星の表面から、死体が散乱する廃墟、そして生命の源流(らしい)世界にまで遡っていく……。夢か幻覚のように世界が目まぐるしく変化し、その描写は難解でないが抽象的で、どうやら精神世界を描いているのか……。後記に「70年代末頃、原稿用紙に手書きし、いろいろな事情で埋もれていた」作品とある。「内宇宙」を描いた作品と見れば納得できるし、ある意味で懐かしくもある。
 松本優「無名の戦士たち」は今風AIもののパロディか。
 椿広子「赤のそのまた外側の柔らかな光」……ファンタジーの文体で宇宙SFを書いた面白さだが、「宇宙の熱死」に触発された作品と読めば現代的ニューウェーブ短篇であり、今なら「狭義のSFに近いもの」と解釈できそうである。

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