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6月30日(月) 大阪←→播州龍野
早朝の電車で播州龍野へ移動する。
晴天……というより炎天である。
9時前、タイムマシン格納庫は既に40℃超え。長居無用、すぐ実家へ移動。
故郷は緑なりき。雑草が繁って緑過剰である。
雑草は近日シルバーが処理してくれるはずだが、気になるのは塀の外のビワである。
前回来た時(6月4日)実りかけていたのが、見事に、ひとつもない。
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じつは、売り物にするには紙袋を被せたりする必要があるが、そのままでもおいしく食べられる……と藤田さんに教えてもらった。今回、試食してみるつもりだったのに、どうも「誰か」が取って(盗って)いったとしか思えない。
そうなると、前回「梅は今年も壊滅」と書いたのもあやしくなる。カメムシ被害も聞かない。梅も見事にひとつも見当たらなかった。
秋の柿泥棒が夏にも出現しているのか。困ったことである。
屋外がこれだから、屋内は推して知るべし。屋内に泥的の侵入はないものの、1日や2日で手がつけられるものではない。家屋の老朽化が進行しているのである。
書斎で2時間ほど調べもの。風が通って涼しい。書籍整理には、しばらくこちらに移住するのがいいと思うが、家族の同意は得られず。悩みはつのるばかり。
市内数カ所巡回の後、午後の電車で帰阪。
東加古川で車窓を通過するビルを見る。
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チャールズ・エリック・メイン。
6月29日(日) 穴蔵/H2A
午前1時に目が覚め、youtubeでH2A-50号機の打ち上げを見る。
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鹿児島方面、地震があるかなと期待心配したが、1時33分、無事発射。
快晴らしく炎は鮮明、10分400キロあたりまで見て、また眠る。
5時過ぎに直射光さすが、昨日と同じく爽やかな1日。
終日穴蔵。読書、午睡、空しく一日を送る。
6月28日(土) 穴蔵
晴。各地猛暑日が多いようだが、室温は終日30℃快適。むろんエアコン不要。
終日穴蔵。読書、午睡、空しく一日を送る。
6月27日(金) 穴蔵
晴。やはり近畿は梅雨明けだそうな。
朝9時半頃まで直射光が射し込む差し込むが、あとは涼しい1日。
終日穴蔵。雑用色々。
・ODJC関係の雑件手伝い。7月にジョージ・ルイス生誕125年ライブ、8月に河合良一さんメモリアル・ライブがある。
・8月にはむろんハチで山下洋輔ライブあり。
・森山WEBによれば、森山威男さんは、
8月に北京・上海(中国にBLUE NOTEが出来た!?)、9月に東京藝大、10月にala(可児市)、11月にロンドンで演奏しはるらしい(詳細は未発表)。
10月のala(例年9月が今年は10月?)は行けるだろう。
いずれにせよ、年内、月に1度くらいライブを楽しめそうな。末期高齢者にはちょうどいいペースである。
・「波」7月号に筒井さんのエッセイ。相変わらずの健筆、何よりである。
この号、川本三郎の講演記録も掲載されている。
たちまち夕刻。
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暮れゆく梅雨明けの北梅田を眺めつつ麦系飲料を少しばかり。
6月26日(木) 穴蔵
曇天、朝9時過ぎに激しい雷雨あり、大阪市に大雨警報が出たが、午後には晴れてきた。梅雨明けであろうか。
・午後、昔から馴染みのSF関係2氏が来穴蔵(おひとりはわざわざ東京から)。
用件は、まだ企画段階なので明かせないが、半世紀ほど前のSFファンダム事情の調査である。
先日からこの時代のこと(『伊藤典夫評論集成』や『60年代ポップ少年』など)が気になっていて、これもシンクロニシティか。
思い出すままにしゃべるが、恐ろしく細部まで下調べがしてあり(国立国会図書館でファンジンの相当量がデジタル化されているとは知らなかった)、忘れていた(忘れようとしていた)失敗例など、質問されて思い出すこと多し。
近いうち播州龍野書斎に帰って資料発掘することにしよう。
併せて「各地にあるSFコレクション」の現状も聞く。古書店情報も。これは参考になるというか近い将来が心配になるというか。
夕刻まで、久しぶりに刺激的な時間であった。
・播州龍野の前田清吾さんからメールあり。
今年もトンボ池でアキアカネが自然羽化たと写真を送っていただいた。
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前田さんは赤トンボを増やそう会を主宰、トンボ池での活動はyoutubeで紹介紹介されている。
その地道な活動にはつくづく頭が下がる。
7月1日〜20日、トンボ池が見学できるらしい。行ってみるか。
6月25日(水) 穴蔵
陰のち晴。
終日穴蔵。読書、午睡、空しく一日を送る。
6月24日(火) 穴蔵
昨夜からの雨、未明に激しく、朝も本降り、しだいに小降り、午後曇天。
出かける気分にならず、終日穴蔵。
・午後、DVDで『桂米朝 なにわ落語青春噺』を見る。
ドラマ仕立ての部分は短く、やはり全編本格ドラマにしてほしかったな。鉄瓶やりょうばなどの楽屋落ち的な配役も面白いのだから、正岡容を意外な配役で登場させるとか、もっと膨らませてほしかったところ。
・正岡容といえば、『荷風の昭和』を読んでいて(新発見密度が高すぎて1日2,3章のペース、それでも驚きの連続でやっと戦後まで来た)、米朝と荷風が1年ほどのすれ違いだったことに気づいた。
正岡容が空襲で市川に移住、近所の荷風を訪ねたのが昭和21年8月。荷風は留守で、翌日なんと荷風が訪ねてきて正岡仰天。断腸亭にはともに1行しか書かれてない(「摘録」では省略されているから気づかなかった)。川本は正岡の著作から詳しく検証している。
米朝(中川青年)は巣鴨で正岡家の表札を発見して入門したが、昭和20年、徴兵検査で姫路に戻り、戦後は復学していない。
正岡容を巡って、米朝と荷風は1年ほどのすれ違いだが、米朝師匠の方が先だったことになる。
この時代、疎開空襲焼け出されで、文化人の移動もずいぶん激しかったのだなあ。
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