『マッドサイエンティストの手帳』702
●マッドサイエンティスト日記(2019年4月前半)
主な事件
・花見(6日)
・大阪ダブル選挙(7日)
・「モリメール」morimura@museum(12日)
・New Orleans Jazz At Church(14日)
4月1日(月) 穴蔵/ウロウロ
4月になった。
穴蔵にてボケーーーーッと過ごす。
昼前にテレビで新元号の発表を見る。令和。へぇ。まあ、1年ほどすれば慣れるだろう。
安っぼい漢字が使われるのではと危惧されていたが、安堵するというか、ひと安心である。
午後、月次の処理事項があって梅田うろうろ。
阪急ガード下、古書の街が「茶屋町あるこ」という食堂街になってオープンしている。
歩道が広くなり、東側が出入り口になった(内側の通路は消滅?のような。その分、店の奥行きがあるようには見えないが)。
雨除けは未完成。
*
いずれも今風で、おれが入れる店ではない。というよりも「老人お断り」の雰囲気だ。
おれは新梅田食道街さえあればいいけど。
4月2日(火) 穴蔵
定刻4時に目覚め、4時半にプラスチックごみを出しに行ったら、早くも「不法投棄」。
4月からゴミ出しの曜日が変わり、くどいほど掲示しているのにこれだ。
(ゴミ収集日をしばしば変更する大阪市にも問題ありと思うが)
副理事長としては黙認できず、雑作業あれやこれや。
9時に管理人が出勤してくるが、それまでもマナーの悪いのが続々。
5月から理事長を務めねばならず、その後の1年を想像するだけでも気が重くなる。
不調である。
終日穴蔵。寒くて出歩く気もせず。Q状態で過ごす。
明日は少しはいい日になってほしい。
4月3日(水) 穴蔵
晴れて寒。
穴蔵にあり。少しは本も読み、あとはボケーーーーッと過ごす。
運動不足なり。午後30分ほど近所を散歩。
公園の桜は5分咲き。花見は週末であろう。
*
ただウチの2階人工庭の桜(50センチほどの花壇の桜/樹齢40年)のみ満開である。
昨年の台風でちょっと傾いた。副理事長としては切り倒したいのだが、住民の賛意は得られず。ま、健気に咲いているというべきか。
4月4日(木) 穴蔵
快晴である。
終日穴蔵にあり、ボケーーーーツと過ごす。
夕刻になって、BSの映画見忘れに気づいた。
『突撃隊』(1961)である。
ドン・シーゲル(この作品で初めて名前を知った)の傑作。高校2年の時に姫路(新生劇場だったかな)で観た。
少人数で小さい陣地を死守する設定。マックイーンのアクションもいいが、コバーンが光っていた。ジープに金具を取り付けて戦車の音を偽装?するとか、あの手この手で出てきた。
半世紀以上前に観たきり。細部を確認したかったのだが……。
調べてみるとDVDは出ているらしい。なんとかなるか。
4月5日(金) 穴蔵
快晴……が、少し中国からの黄砂や色々で薄曇りになる。
終日穴蔵にてボケーーーーッと過ごす。
4月に入ってから、ほとんど運動(散歩)していない。
実は、この数日、『宿借りの星』を読んでいるのである。
3年がかりで書かれた長篇。とても一気読みできる本ではないし、すべきではない。
悪夢にうなされる日々……。
その悪夢もいよいよ終わるか。
4月6日(土) 花見
黄砂を除けば好天である。
10時頃に専属料理人と花見に出る。
桜はまだ7分咲であるが。天気がいいのは今日だけらしく、いたしかたなし。
ウチの花見は本当に「花を見る」だけで、弁当もビールもなし。
豊崎西公園〜豊崎東公園〜本庄公園〜淀川堤に出て、毛馬閘門まで。
毛馬の東側は送水管撤去工事中(来年2月まで)で、桜のある堤は歩けず。
毛馬閘門ほ渡り、大川左岸沿いに毛馬橋、都島橋、源八橋を潜る。このあたりはほぼ満開。だんだんシート敷いての宴会が増える。
* *
桜宮橋を東に渡り、泉布観を抜け、OAP経由、天神橋筋商店街に出る。
花見は終わり。
玉一で焼肉定食。やっとビールにありつく。
阪急オアシス〜タカセ市場経由、ポーターを務めつつ、14時半に帰館。
16,867歩となった。
4月7日(日) 大阪ダブル選挙
天気晴朗にしてPM2.5は26。まあまあなどと言ってはいかんか。
ほぼ終日、穴蔵にこもって過ごす。
外出は午後、地方選挙の投票に豊崎小学校往復のみ。
ここは毎日放送に近く関テレにもそう遠くはないが、出口調査を見たことがない。
もし受けたらデタラメをいうつもりなのだが、機会ないまま。残念である。
酉島伝法『宿借りの星』(創元日本SF叢書)
異形の天才降臨ふたたび。
待ちに待った酉島伝法氏の長篇である。
*
『宿借りの星』の主人公はマガンダラ(名前)である。むろん人間ではない。ヌトロガ倶土(ぐに)に棲むズァングク蘇倶(ぞく)、四本脚と二本腕は鎧殻(がいかく)で覆われ、眼は全周が見渡せる四個、胸部に裂脣(くちびる)がある。両脇腹にある鞘穴(さやあな)には分泌する蜜を補食する螺子(つぶね)が棲みつき、鎧脚(がいきゃく)にへばりつく泥を舐め取ってくれる。蘇倶特有の胴体から継ぎ目なく伸びる尻尾は、断尾刑を受けたために断ち切られている……
ああしんど。漢和辞典引きながらでないと転記できない。これだけでも、途方もない時間をかけて書かれた作品と実感できる。
マガンダラは故郷を追放され、あてどなく咒漠(じゅばく)を彷徨する。その過程でラホイ蘇倶のマナーゾに救われ、誼兄弟の杯を交わす。ラホイ蘇倶はズァングク蘇倶の食材でもあるので、最初はびくつくが、次第に「兄貴」と慕い、旅を共にする。
ある倶土でマガンダラは不気味な生命体(奇怪な生物だらけだから、この形容はおかしいのだが)が自分の頭の中にいることを教えられる。それは薄卑色をした粘膜質の体節が曖昧に連なっていて、胴体の周囲からはたくさんの繊維状のものがマガンダラの脳に繋がっている。それは遠い過去にこの星・御惑惺様(みほしさま)全域を占拠し、やがて殲滅されたはずの卑徒(ひと)の成れの果ての姿という。ズァングク蘇倶の多くはこの虫に寄生されていて、やがては卑徒に支配されることになるだろう。
これらをヌトロガ倶土へ持ち帰れば、マガンダラの罪は許されるのではないか。そう入れ知恵され、マガンダラは(さらに仲裁人とか見張り役らしい怪しげな顔ぶれとともに)故郷ヌトロガ倶土へ向かうことになる……。
ここまでで前編の半ば。全体の1/4ほど。しかも、短くまとめたので、異生物や風景が創り出す雰囲気の99%は抜け落ちてしまっている。「皆勤の徒」以上の特異な造語感覚とイマジネーションの喚起力、さらに所々に挟まれるズッコケ会話によるユーモア。特筆すべきは「味覚描写」である。茹でた肉舞(ししまい)、肪腑螺(ぼうふら)の煮込みはじめ、うまそうでない料理が続々と出てくる。それどころか、一時的にマガンダラは捌助(さばすけ/板前?)までやるから、不気味な料理法が詳述される。後半になるとだんだん旨そうに思えてくるから危険だ。
それから、数多く挿入されている挿絵(酉島伝法)も素晴らしい。
全体の構成は、前編「咒詛の果てるところ」と後編「本日はお皮殻もよく」に分かれ、その間に「海」の章がある。
この章が凄まじい。この章の主役?は卑徒ではなく人間(とは書かれていないが)か。地球?の海に生まれた知性が、宇宙に出、テラフォーミングを中途半端に投げ出し、戦争を繰り返し、やがては寄宿生命となって、様々な生物に寄宿しつつ「御惑惺様」の生態系に侵入する経過(だろうと思う)が、前後編とはまったく別の造語と文体で語られる。それもメタフィクション的な技法といった生やさしいものではなく、多くのイメージの断片が凄まじい勢いで――液状化した粘弾性体の噴出とでもいう感じで、しかも見事にズァングク蘇倶に着地する。
この章を読んでから、物語は後半に入るが、この星の生態を見る目も少しずつ変わりはじめる……
円城塔氏の解説がいい。「酉島伝法は自らの心窩から絶え間なく沸き出すものを表現する手段を探し求める探求者であり、世界作成者であると同時にその翻訳者である」が「本当にそこへ赴き、見てきたままを書いている、という可能性も残されて」いるという! おれにはアチラからの伝道者のような気がしてきた。
本書のタイトルは「宿借りの星」であり、宿を借りているのは卑徒(虫)なのか。読者たるわれわれ卑徒?からすればどうなるのか。マガンタダからすれば「宿借られの星」「宿貸しの星」か。それは視点によって「招かざる客」が「招かれざる客」になるのに似ている。マガンタダに感情移入して作品世界に没頭してくると、直ちに人間に戻れず、戸惑いを覚えるのである。普通の読書感覚とは異なる。なにしろ異形の生命体を体験させられるのだから。
登場した蘇倶たちは最終的に幸せになったのだろうか。これは哀しい物語に思えてならない。
まだ本書の酉島世界をすべて理解した自信はない。
しばらく頭を冷やしてから再チャレンジすることにしよう。
附記――最後に唐突だが、安倍政権はなぜ新元号の考案を酉島伝法氏に依頼しなかったのか。確実に新時代を招来したにちがいないのに。なおこのことは一度だけ、ここでしか言わない。
4月8日(月) 穴蔵
天気予報に反して、本日も天気晴朗。
ただし気分最悪。一昨日の夜に「喘息的咳」が断続的に出て、食事はできるが、眠れない。2晩ほとんど眠れず。
朝、近所の某医院へ行く。
場合によっては耳鼻咽喉科への紹介状を書いてもらうか……と思ってたら、よくある症状だと、1週間のクスリの処方箋が出た。
薬局回って帰館。
即効性はないから、2、3日は効果ないかもしれんが続けるように、と念押されてたが、30分たたずに効果が出てきた。
ただし眠い。ボーーーーーッとしてくる。
このところ毎日ボケ状態だが、アタマが働くのと眠いのではまるで異なる。
仮眠。起きて、また仮眠。昼飯。また寝る。軽い晩酌。クスリ。また横になって、本は読めず。
どうなることやら……
4月9日(火) 穴蔵
ほとんど眠れず。おとなしく呼吸しつつ、浅い眠りに入ると咳が出て、また目覚めるの繰り返し。
本が読めないのがつらい。朝になる。
本日は快晴。
昼間はクスリの効果で普通だが、体だるくドタマはボケーーーッ。
外出はジュンクドー往復のみ。
大阪は本日が満開で最高の花見日和のようである。
*
豊崎西公園、夕刻から宴会か。
2日ほどで急に新緑が鮮やかになった。こちらの方がいい。
野々村竜太郎の生家近くにも新緑の季節は訪れるのであった。かのアタマは枯れすすきか。
4月10日(水) 穴蔵
やはり眠り浅し。徐々に薬効あり、喘息状の咳は治まってきた。アタマは朦朧。
雨である。
終日穴蔵で過ごす。
明日は少しはいい日になるだろう。
加藤政洋『大阪 −都市の記憶を掘り起こす−』(ちくま新書)
著者が『敗戦と赤線』や『花街 異空間の都市史』の加藤政洋氏なので飛びついたが、これが大当たり。
大阪の街歩き本としても飛び抜けて面白い新書であった。
*
目次を見るだけでゾクゾクしてくる。
・路地と横丁の都市空間 生活空間としての路地と空間パッケージとしての横丁
・大阪《南/北》考 駅と遊郭/駅前ダイヤモンド
・ラビリンスの地下街 梅地下の原風景からラビリンスへ
・商都のトポロジー 谷町筋/船場/丼池
・葦の地方へ 此花の重工業地帯
・ミナミの深層空間 飛田と釜ヶ崎
……まだまだあり。
どれもこれも好きな場所ばかりで、考察は人文地理学(特に都市社会地理学)の知見に裏打ちされている。
著者は1972年生まれ、地理学実習の巡検に参加して初めて大阪に来たのが1993年。釜ヶ崎の食堂で昼飯を食べたのが忘れられず、以後25年、大阪を歩いているという。
ちなみにおれが初めて大阪に来たのが1962年、池田市に下宿したのが1965年、市内に住みだしたのが1970年だから、30年ほど早く、1970〜1993年は著者には「文献」の世界のはずだが、その描写の密度とリアリティは、実際に歩いたおれが読んで、見てきたとしか思えぬほど。
たとえば阿倍野再開発、ミナミなどの部分。おれは学生時代(60年代後半)、土曜午後に地下鉄花園町から東西に長く細い商店街を抜け、阿倍野筋に出て、天王寺公園を下り、通天閣をくぐり、日本橋筋を北上、千日デパートに寄り、地下鉄で梅田、梅新を回ってから帰るコースをよく歩いた。古本屋巡りで、15軒ほど。新世界で映画を見たり、タタキを見たりもした。
このコースのほとんどが(同一記事ではないが)出てくる。自らのフィールドワークに古地図、織田作や小野十三郎などが引用されて、重層的に描写される。この大阪描写が素晴らしい。
特に飛田新地から上町台地へつながる山王町の坂道が、あべのキューズタウンの完成によって、崖上の旭町と崖下の山王町に分断された。その結果「強烈な個性を有する場所を連結する一帯」「各々の場所性が周囲ににじみ出てうろこ状に重なり」合う空間的広がり(これは「界隈」と称されていた)が失われてしまったという。……この付近は確認していない。行かねば。
あ、こんな調子で紹介していたらキリがない。
いちばん面白いのが「葦の地方へ」の章。
小野十三郎の詩「北港海岸」が引用される。「風はびゆうびゆう大工場地帯の葦原を吹き荒れてゐる。」この葦原がUSJができるずっと前の此花区。「葦の地方」とは大工場地帯を指す。
加藤氏は『花街』で、都市化の初期段階で、市街地の形成にともなって「場末帯」が重要な要素になることを指摘しているが、この「葦の地方」にも「私娼窟」が発生していた、それを昭和7-8年の雑誌「大大阪」連載記事「大大阪新地風景」から考察していく。いやあ、知らなかったなあ。おれもUSJには行かないが、此花から港区、大正の工業地帯をよく歩く。沈みゆく産業(じっさい地下水のくみ上げで地盤沈下しているのだが)の残照が好きだからである。長年勤務したのがイトヘン企業だったからで、大阪の産業衰退史には興味が尽きない。
本書の啓示にもよるが、これからは西成区、津守あたりを集中的に歩こうと思う。
まとまりのない感想だが、刺激を受けたことが多すぎて、うまく整理できないのである。
あっ、梅田地下街の章で拙作を数行引用していただいたき感激したことも付記しておく。
4月11日(木) 穴蔵
まだ眠り浅し。30分くらいで睡眠と覚醒を繰り返す感じ。
こんな時こそ体にいいのではと『じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』を読む。
1話ずつ、案外論理的にアタマに入ってくるから不思議だ。
やっぱり眠れん。
起きて、終日ボケーーーーーッ。
昼間、せめて外側だけはスッキリと1100円に値上がりした散髪に行くが、アタマの中はカスミがかかったまま。
咳もとまらず。嗚呼。
北野勇作『この世界は何だ!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』(キノブックス)
北野さんの「ほぼ百字小説」はやくも第3弾である。
*
副題が「その先には何が!?」→「その正体は何だ!?」→「この世界は何だ!?」に。今回は「異空間」「宇宙」である。
本を開くと異世界がある。
一ページに一世界だから、
ふたつの異空間が向かいあっている。
その背面にも別の宇宙がある。
たまにページをめくらずに進める宇宙もある。
透明な宇宙まであって、
なぜそれがわかったのかがわからない。
「ほぼ百字」は北野さんの大発明だと思う。
真似られそうで真似られない。形式ではなく、北野さんの体質なんだろう。
むろん「一発狙い」で始められたものでもない。
だからこそ、売れて欲しいと思う。
4月12日(金) morimura@museum
昼前に専属料理人と出かける。
地下鉄で北加賀屋の森村泰昌ミュージアムへ。
M@M第二回特別展「Morimeer」(モリメール)開催中である。
フェルメールの「セルフポートレイト」作品は「真珠の耳飾りの少女」「絵画芸術」「牛乳を注ぐ女」に加えて、「フェルメールの部屋を訪れる」が展示の中心。
「フェルメールの部屋を訪れる」は、「絵画芸術」が展示してある部屋――それは絵画芸術が作成された部屋で、テーブル上などそのまま残っている――をモデルの女性が訪れる構図のオリジナル?というか、自己言及的作品。
*
近くまで寄ったり、他の客に迷惑にならなければ写真も自由。空いてたから遠慮なく鑑賞できる。
ただしデジカメで撮ると、どうしても自動補正が働いて、肝心の光の具合はペケ。ぜひ現物を見てください。
* *
「絵画芸術」のテーブルの上にさりげなくデジ1カメラが置き忘れてあったり、細部まで楽しめる。
今回の目玉は「あなたもフェルメールになれる」で、「舞台装置」の中に入って写真撮影できるのである(本格的なセルフポートレート撮影は、日曜3回、チーム・モリムラが行ってくれるが、これは完売)。
*
「牛乳を注ぐ女」のコーナーで撮ると、こんな風になる。女性の体躯の大きさが実感できる。
衣装や小道具も借りられるが、そこまではやらなかった。
4月13日(土) 穴蔵/ウロウロ
体調ほぼ回復、というよりも、体を動かした方が回復が早いようである。
快晴であり、昨日につづき、本日はひとりで歩くことにする。
10時半頃に出て梅田まで歩く。大阪駅から湾岸方面のバスに乗るつもりで行ったら、いずれも出たばかり。
徒歩圏に切替え、南東方面、西天満の(夜は)ややこしいあたりを抜け、堀川戎あたりから天神橋筋に出て、あとは商店街のおなじみのコース。
いぶきうどんと都そばが並んでいる前を通過。
なかなか好感のもてるいぶきの横に、とつぜん立ち食いの都そばがオープンしたのが昨秋11月である。
露骨な嫌がらせなのかなとまで思ったほど。
*
今日見たら、昼の12時半であるが、いぶきはほぼ満員、都そばは客ゼロ! 本当にひとりもいない。ははははは。
ちなみに、いぶきはカウンターの立ち食い、都そばには椅子がある。
大阪市民の舌は健全なのであった。安い、早いだけではいかんよ。
ただ、本日は、いぶきはパスして、天六交差点の北西にあるカクウチの名店にて喉をうるおす。
体調戻ってきたぜ。
天六から中崎町をうろうろして14時過ぎに帰館。
9,000歩ほどになった。
4月14日(日) New Orleans Jazz At Church
体調、ほとんど復調。定刻4時に起きて机に向かう。
少しは仕事もするのであった。
曇天、昼前から雨になる。
午後、心斎橋の島之内教会へ。
春の恒例コンサート、New Orleans Jazz At Church 2019 関西のおなじみのバンドが出演する。
今回のゲストバンドは、外山喜雄&恵子 ニューオリンズワールド。
*
サッチモ・ナンバーも含めて、相変わらずのエンターテイナーぶりを発揮。
最後はフューネラルで、セレモニーから聖者の行進まで、賑やかに18時頃に終わった。
あと(寿司屋のウチアゲは遠慮して)専属料理人と明治軒へ。
串カツとオムライスでビールを飲むが、周囲の客は「外国人」ばっかり。中国語以外にタイなど東南アジア系も飛び交う。
落ち着かないことである。
4月15日(月) 穴蔵
終日穴蔵。
仕事したよな、しないよな。
雑事をあれこれ片づけているうちに夕刻となる。
夜は集合住宅の理事会。来月から理事長を務めねばならぬことになった。
精神的に持ちそうにない気がしるところに、このところ体力にも自信がなくなった。
ややこしい滞納のおっさんがいるしなあ。民事やるとしたらおれが原告だ。アホ相手にするほど疲れることはない。
1年ほどの寿命か。
22時近い時刻から晩酌。いつもの就眠時刻ではないか。
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