『マッドサイエンティストの手帳』816

●マッドサイエンティスト日記(2023年11月前半)


主な事件
 ・ ワクチン接種(9日)
 ・福吉久代展@楓ギャラリー(9日)
 ・落ち着かぬ日々(10-13日)


11月1日(水) 穴蔵/ウロウロ
 目覚めれば11月であった。
 早朝のニュース。蕨郵便局の立てこもり男は昨夜22時20分に身柄確保されていた。
 鈴木常雄という、なんと86歳のオイボレである。
 自宅放火、病院で発砲もやってて、騒がしい爺イだが、どこから拳銃を入手したのか。ヤクザだったのではないか。
 しばらく小刻みに報道されることになるのだろう。
 秋晴れ。
 昼、区役所へ行く用事があり、扇町までぶらぶら歩き。
 ついでに扇町公園の丘でぼんやりする。
  *
 なるほど気分がいい。
 かめくんが近くにいないかと見渡したが、誰もいなかった。
 本日は7000歩ほど。ほぼ復調である。

11月2日(木) 穴蔵
 秋晴れの普通の日。
 日常生活もすべて「普通」に戻すか迷うが、もう少し様子見とする。
 午後近所を散歩。4000歩ほど。
 夕食後、早寝。

11月3日(金) 穴蔵/ウロウロ
 目覚めれば文化の日であった。三連休の初日。
 11月になって2日間「様子見」したが、本日から生活のスタイルを「普通」に、つまりひと月前と同じスタイルに戻すことにした。
 主に、服装・運動・食生活。あまり細かいことは気にせず生活することにする。
 午前、買い物があって、天王寺のキューズモールへ。
 何年ぶりか。コロナ禍でミナミや阿倍野あたりへは5年ほど来ていないはず。
 天王寺公園〜動物園(無料)を抜けて、新世界まで歩く。
  *
 公園も動物園も新世界もえげつない人出である。
 ジャンジャン横丁は串カツ屋、寿司屋どことも行列。歩いている人種が入れ替わっている。
 寄ろうかなと思っていた「やまと屋2号店」が見当たらない。見逃したのか、閉店か? 引き返す気にもならず。
 いずれにしても、このあたりへは、もう来ないようような気がする。
 動物園前から帰館。地下鉄も(天王寺→新大阪行を待ったのに)混んでいる。
 御堂筋で何かやってるのか? (午後に御堂筋ランウェイ2023というのがあったらしい)
 連休中は(繁華街には)出歩かないに限る。
 午後は穴蔵。
 たちまち夕刻。
 専任料理人がごく普通の洋風メニューを並べた。
  *
 これでビール、あとブルディガラの三日月パンでワイン少しばかり。うまぁ〜〜〜。これぞ「普通」。
 早寝するのである。

11月4日(土) 穴蔵/ウロウロ
 目覚めれば連休2日であった。
 元大関朝潮くんの訃報。67歳。小腸ガン。ヨコジュンの「グリコ森永犯=朝潮説」を思い出すなあ。
 愉快な男であった。
 急に、歩きたくてウズウズしてくる。
 スニーカーを買い替えたら、これが「抜群の履き心地」で、じっとしてられない気分になった。
 人出のない場所を歩くことにする。
 午後は曇天らしいので、昼前に出て、豊崎神社〜本庄公園〜淀川堤の下を東へ、長柄橋を過ぎて毛馬閘門まで。
 大堰の工事(万博がらみ)はまだよく見えない。
 毛馬堤の斜面でボケーーーーッと過ごす。
  *
 かめくんが近くにいないかと見渡したが、誰もいなかった。
 天八経由で帰館。
 久しぶりに1万歩を超えた。

11月5日(日) 穴蔵/ウロウロ
 目覚めれば3連休の最終日であった。
 午前、穴蔵にてマジメに机(PC)に向かう。
 この2ヶ月ほどラスカルズとジョージ・ルイスを色々聴いてきたけれど、それらをまとめておくことにする。
 ごく個人的な趣味の作業。
 一応ひと区切り。明日からは気分を変えて、デフランコ師匠やパキート師匠も流すことにしよう。
 秋晴れである。
 午後、近所を散歩。
 ジュンクドーに寄ったら、ジャズを特集した雑誌が数冊並んでいたので、ちょっと読ませていただく。
  *
Jaz.in」という雑誌はVol.001で創刊号らしい。ニューオリンズを特集している。ジャズの歴史を延々と辿る1冊目ということか。
 木村"おおじ"純士さんの「河合良一さんをしのんで」がいい。が、(他の雑誌も)総じて「浅く」、購入するほどではなし。
 3000歩ほど歩いて帰館。
 明日からやっと「普通」の日常に戻れる。

11月6日(月) 穴蔵/ウロウロ
 目覚めれば平日であった。
 このところ早起きモードである。午前3時頃に目が覚めてしまう。強いて改める必要もないので、朝まで色々読む。
 天気予報は午後から雨。
 午前中に用事を済ますことにして、10時頃に出る。
 歩いて大阪北郵便局へ。
 ついでに南側の「里山」を散策。
  *
 稲刈りはもう終っていた。急速に秋が進行している。
 うめきた2期地区を抜けて、ヨドバシ、ATM、紀伊国屋書店を経由して昼前に帰館。
 午後は穴蔵。予報どおり雨になった。
 播州龍野のシルバーセンターからややこしい電話あり。
 実家の庭木の剪定を毎年依頼しているのだが、数年ごとに事情が変わる。
 去年までお願いしていた人が脳梗塞で倒れたらしい。田舎のシルバーもだんだん人手不足になっていく。
 どうするか、また出向かねばならぬ。
 個人的には、もう「全部切り倒し」でいいと思うのだが……「この松は値打ちでっせ」などという結構なご意見も聞くけど……身内の意見を調整できるかどうか、ややこしいことなり。
 自然のまま「放置」がベストか。

11月7日(火) 穴蔵/ウロウロ
普通」の1日であった。つまり……
 4時過ぎ、穴蔵にて目覚め、諸々の朝の儀式。
 5時半、ひとりで朝食。定番メニュー。
・野菜ジュース、トースト、ハム、サラダ、ミルクティ、果物
 午前中、雑事あれこれ。まとまったことはできず。
 播州龍野関係の連絡や、コロナワクチン接種(7回目)のネット予約や、野良猫の観察や、本を読んでメモ取りなど。
 昼食で「自宅」へ行く。
・炒飯、サラダ、スープ
 しばらく昼寝。
 快晴になり、14時に出て近所を散歩。野良猫観察。ジュンクドー、A建築など回って帰館。約3000歩。
 夕刻のテレビで、梅北地下道が、今夜9時で閉鎖、95年の歴史に幕……というニュース。
 うめきた2期地区の地下道……昨日通ったばかりではないか。そういえば横に(西側の線路跡を横断する)歩道ができていた。
 ここは、40年ほど前まで、梅田貨物駅の下、北区(芝田)と大淀区(大淀)をつなぐ500メートルの暗い地下通路で、夜歩くのは男でも怖かった。
 地下道跡がどうなるのか、近いうち見物に行くことにする。
 たちまち夕刻。
 19時から「自宅」で晩酌。
・オードブル、鶏手羽、オニオングラタンなど洋風メニューでビール、ワイン少しばかり。
  *
 穴蔵にて、しばらくCD、本の拾い読み。
 21時過ぎ、眠くなってきた。
 ……と、こんな毎日が(あと10日ほど)続くのであろう。

11月8日(水) 穴蔵
 午前3時目にが覚める。
 本日も普通の1日。
 穴蔵で色々考え事をして(アタマは働かないからボケーーッとして)過ごす。
 午後30分(3000歩)ほど散歩。
 たちまち夕刻。
 夜は天ぷらで一杯。
 リビングから夜景を眺めると、梅田方向から真上にレーザービーム?
  *
 何事かと思えば「御堂筋イルミネーション」の企画のひとつで、御堂筋北端あたりから照射しているらしい。
 花火よりましか。
 ……ということで早寝するつもり。こんな日が(あと9日ほど)続くのであろう。

11月9日(木) ワクチン接種/福吉久代展@楓ギャラリー
 定刻4時に起きる。
 BSとネットでニュースをチェック。
・先日来、全国各地で熊に襲われたニュースが多いが、昨日は茨木市(茨城県ではない)で熊が目撃されている。
 忍頂寺地区というから、山に囲まれた地域で、豊能(以前の勤務地近く)と背中合わせみたいな場所ではないか。
 気になって兵庫県を調べてみると、たつの市でも光都と室津で目撃されている。意外に身近なところに出没しているのだ。
 こうなると、昔、自分でボツにしたアイデア(スプリング8にクマが侵入する設定)も、案外リアリティがあるような気がしてくる。
 閑話休題。
 秋晴れである。
 一週間ほど外出自粛のつもりだったが、そうもしておれん。
・午前、専任料理人と天六方向に歩いて、某クリニックへ。
 事情で延ばしていたワクチン接種(7回目)である。6回目はだいぶ待たされたが、本日は空いていて、15分間の「様子見」の間も、新規の接種者はこなかった。世間はもうワクチン接種してないのか。
 昼前に帰館。
 午後、また出る。明日が本格的な雨の予報なので、予定繰り上げなり。
 地下鉄で谷町六丁目へ。
・ギャラリー楓で福吉久代さんの個展を見る。
 30年ほど前から数年ごとに見てきた。今回は同じギャラリーで4年ぶりである。
  *  *
 まったく勝手な見方だが……20年前の画風はレオロジーというかトライボロジーというか、奇妙な粘弾性体を描いた印象だった。
 それが4年前には深いブルーの夜景のようなイメージに変わり、今回はモチーフが「植物の葉や花と風」に変化したような、じつに爽やかな印象を受ける。
 広い会場で、昔の作品も並べると面白いのではないか……などと愚考するのであった。

11月10日(金) 穴蔵
 雨。終日歇まず。
 ……と断腸亭なら1行で終る1日。
 終日穴蔵にてボケ状態で過ごす。
 先日から「あと何日」みたいな思わせぶりなことを記述しているが、わが寿命が来週あたり終るのではないかと(2年ほど前から)気になっているからである。
 これを自分では「断腸亭の呪縛」と名づけているのだが、書き出すと長くなりそうな。
 1週間ほど出歩かないつもりなので、何回かにわけて書いておくことにする。

【断腸亭の呪縛】@
 日記文学に関して自論がある。
「日記は著者と同年の時に読むのがいちばん面白い」
 というもの。
 これを自覚したのはわたくしが30歳の時。筒井康隆氏の『腹立半分日記』に収録されている「SF幼年期の中ごろ」の章を読んだ時である。
「SF幼年期の中ごろ」はSFマガジン75年2月号に発表された、筒井氏の64年11月18日〜65年2月5日の日記である。
 作品はボチボチ売れ出しているものの、なかなか思い通りの仕事はできない。まだ著書はない。ヌルスタジオを経営しつつ、アニメのシナリオの仕事もあり、東京に居を移すか思い悩む日々である。この時、筒井氏は30歳。そしてこれを発表したのは筒井氏40歳の時である。
 記述がややこしくなるが、これをSFマガジンで読んだわたくしは30歳であった。
 この「作品」からは、面白いとか感動したなんて言葉ではいい尽くせない衝撃を受けた。主にふたつの面から。
 ひとつは、わたくしはここに記述されている30歳の筒井さんを実際に知っていたからである。NULLに作品を載せてもらっていたし、夏にはDAICONがあった。秋のレボート号がNULL終刊号だった。大学生だったわたくしはもこの頃にも何度かヌルスタジオを訪ねている。終刊・閉鎖は寂しいが、いよいよ本格的に作家活動に専念されるのだなと、眩しく感じたものだった。この時、わたくしは20歳……だから、日記に書かれている「あせり」や「不安」は想像もできなかった。
 ふたつめは、これを読んだ時、わたくしが30歳だったことだ。この頃わたくしはあせっていた。短編が幾つか載ったものの低迷している。会社の仕事が忙しく、私生活(寮生活)でプライベートな時間と空間が確保できない。だが、それを理由にさぼっいたのである。筒井さんの30歳の日記で頬をはられた気分だった。わたくしが甘すぎた。当時颯爽と映った筒井さんの仕事の実態はここまで厳しかったのだ。
 これを機会に、わたくしは(この時には神戸に転居されていた)筒井さんが再開されたネオヌルに再入会させてもらい、創作を再開し、そこでかんべむさしさんと出会い……とSF生活が変化していくことになる。
 30歳で「30歳の筒井さん」に接した影響はそれほど大きかったのである。
 ただ、この時「日記はその著者と同年で……」という認識はなかった。
 断腸亭が現れるのはまだ先だが……つづきは明日にでも。

11月11日(土) 穴蔵/西長堀
 曇天。終日穴蔵……のつもりだったが、どうしても調べたいことが発生。
 実家書庫ならすぐわかることだが、播州龍野行は、あと1週間は見合わせた方がいい。
 午前、地下鉄で西長堀の中央図書館へ。滞在1時間。ささっと帰る。
 午後は穴蔵にこもる。

【断腸亭の呪縛】A
 日記文学といえば、『更科日記』や『土佐日記』が浮かぶが、教科書でサワリを読まされた作品には興味がわかない。
 日記は割と読んだつもりだが(山田風太郎から晩年の川崎長太郎まで色々あるが、その読書歴は省略して)、結局行きついたのは『断腸亭日乗』である。同じパターンの人は多いはずだ。
 実家には父の蔵書(中央公論社版の荷風全集)があり、後ろの方6巻を「流し読み」したことはあったが、部分的に「精読」し出したのは40歳を過ぎてからと思う。帰省するたびに1巻ずつ持ってきて、時々めくる読み方だった。
 これが(わたくしが)還暦を過ぎたあたりから、なんだか「病みつき」になってきた。母の世話で半分ほど実家で過ごした時期である。
 この頃から「同年の文豪がどうしていたか」を意識して読むようになった。荷風の還暦(1939)以降、『断腸亭』の後半、戦中・戦後である。
 大阪中心の生活に戻ってからは、座右に(正確には背後の書架の手の届く位置に)岩波文庫の磯田光一編『摘録・断腸亭日乗』を置いて、ことあるごとにこれを繰ることになった。まるで「同行二人」である。
 荷風が乗り移ってくるというのではない。ただ、荷風の行動を「追体験」してみたくなるのは確かだ。玉の井登楼やカフェ通いや浅草のストリップではない。まして居候の迷惑老人になりたいわけでもない。そもそも「おっさん」とは作品だけで接すべきで、「お近づき」になりたい人物ではないからだ。
 憧れるのはその「散歩癖」である。荷風が歩いた同じコースを歩いてみたくてしかたがない。この「聖地巡礼」ファンは多いようだ(代表格は『荷風と東京』の川本三郎氏だろう)。わたくしは大阪だから、そう上京はできず、麻布の偏奇館あたりと晩年の市川市八幡から浅草周辺くらいしか歩いていない。
 つまり、同じ道を散歩するかわりに「同じ年齢を過ごす」という気分である。
 20年近くそんな生活をしているうちに、いよいよ荷風の享年が近づいてきた。文庫では残り数ページだが……つづきは明日に。

11月12日(日) 穴蔵
 陰鬱な冬空である。室温は昨日から1℃下がっただけだが、体感温度はさらに低い。
 部屋を冬仕様に変更。コタツをセットし、机下に足温マットを置く。
 終日穴蔵。
 ともかく動かないことである。

【断腸亭の呪縛】B
 荷風は1957年3月27日に市川市八幡に建てた新居に引っ越している。77歳の時。その日から浅草通いがはじまる。
 それまで住んでいた同市菅野時代から浅草には通っている。
「晴。午後浅草。」
 の記述が多くあり、「アリゾナにて食事。」と追記されていることも多い。
 八幡に越してから、これがほとんど毎日、
「晴。正午浅草。」
 になる。八幡は管野よりも京成八幡に近く(駅まで100メートルほど)、浅草がより近くなったせいだろう。
 半藤一利氏の調べでは、毎日「午前十時十分に家を出て、京成電車で押上へ。そこからバスか都電で浅草へ赴き、アリゾナかナポリで朝・昼・夜を兼ねた食事をたらふく食った。(中略)そして一時半ごろ逆のコースをとって帰宅し、戸締りをしっかり」というパターンである(『永井荷風の戦後』)。
 今は京成は地下鉄浅草線に乗り入れているが、当時は押上で乗り換えだから、徒歩を含めると片道4,50分かかったのではないか。やはり健脚だったといえる。
 59年3月1日、荷風はアリゾナで食事中に「発病」し、帰路に転倒して腰を打つ。どうにか雷門まで歩いて、タクシーで自宅へ帰る。これが最後の浅草行となった。断腸亭にはこう書かれている。
「日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる。」
 この日からしばらく「病臥」が続き、その後「正午大黒屋」が続くことになる。
 大黒屋は八幡駅前の、いちばん近い食堂で、ここで毎日「カツ丼と菊正一合」を食す。これが二ヶ月ほど続いたあと、3月30日午前3時頃に胃潰瘍の吐血による窒息死」で世を去る。
 これが「定説」であり、ほとんどの荷風本には上記のように記述されている。
 ただし異説もある。これは松本哉『永井荷風ひとり暮らし』で紹介・検証されている。
 新藤兼人が92年に「図書」荷風特集号寄せた文章。
「荷風は晩年、浅草の尾張屋に通っており、トイレの中で尻餅をついたことがある。女将の話では死の一週間ほど前だったという。」
 これは不思議な話で、公式的?には、浅草通いはやめ、「正午大黒屋」の時期である。
 松本氏は女将に再インタビューし、さらにこの頃の荷風を「追いまわしていた」青年カメラマンを探し出して話を聞いている。さらには残された写真も検証している。
 その結論は、「死の一週間前は記憶違いの可能性が高いが、ひと月前頃に浅草に来ていたことは間違いあるまい」「あえて見苦しい姿を書く必要はなかったのではないか」詮索するのはヤボで「本当の話が二通りや三通りあるのが伝説」ということである。
 いずれが事実だったにしても、「同年齢」で読んできた立場としては、もう「残り数行」まで来てしまったのだが……つづきは明日に。

11月13日(月) 穴蔵
 目覚めれば真冬であった。
 寒い。出歩かないに限る。
 終日穴蔵。
 朝、定番。昼、自宅で一汁二菜。夜、自宅で鴨鍋で一献。
 これといったことはできぬまま。

【断腸亭の呪縛】C
 人は自分の寿命をどう考えているのだろうか。
 男の場合、父親の享年が気になるのではないか。
 特に若くして実父を亡くした人(わたくしも身内にひとりいる)はこの傾向が強い。
 米朝師匠は「わしの寿命は五十五や」と口にされることが多い……と、一門の弟子がマクラで話した。
 実父の享年が55歳、師匠米團治がやはり55歳、もうひとりの師匠正岡容がほぼ55歳(満55歳の直前)で亡くなっているから無理もない。……無事にその年齢を「通過」されて数年後、「今は税金が高いとボヤいてますわ」と小米朝さんが高座で話していた。
 わたくしの場合、父は77歳で亡くなった。正確には満77歳を迎える前日である。入院生活が半年ほど続いていたし、わたくしも不惑を過ぎていたから、別に喪失感はなかった。
 だから、自分の77歳の誕生日も、喜寿と父の享年が重なる不思議な日であったが、別に気にすることなく「通過」した。親しい同年代の友人を何人も喪っていたし、いつ「その日」が来ても不思議ではない年齢になったせいもある。
 ところが、喜寿を過ぎてから、なぜか荷風の「享年」が頭から離れなくなったのである。
 還暦を過ぎた頃から、断腸亭を「同年齢」で精読し始めたことは前に書いたが、荷風の満77歳の頃を見れば、管野から「午後浅草。アリゾナにて食事。」の日々。「摘録」では残り20ページほどである。
 この十数年、断腸亭に付き合ってきたが、残り少ないと嫌でも気になる。そこで細かい日数まで勘定してみた。
 荷風は79年149日生きた。
 この数字をわたくしの誕生を起点に当てはめると、「その日」は2023年11月16日になる。
 いや、もっと厳密に日数で計算すると、1日ずれるかもしれない。荷風が通過した1900年は平年、わたくしが通過した2000年は「世紀末閏年」で、1日の誤差が生じる。すると「その日」は2023年11月15日になる。
 いずれにしても「その日」は今週半ばに迫っている。
 しばらく外出を控えておとなしくしているのは、そんな理由からである。

11月14日(火) 穴蔵
 晴。終日穴蔵。
 コタツでじっとしているつもりだったが、さすがに健康上よくない。
 午後、近所を恐る恐る散歩することにして……オモテに出てみると、公園が工事塀で囲われ始めていた。
  *
 年明けからのはずが、もう半分ほど進んでいる。
 これから10年ほど(つまり一生)この塀を眺めるわけか。嗚呼。
 出歩くなという警告であろう。公園の「残り半分」を散歩して帰館。
 あとはふて寝。

11月15日(水) 穴蔵
 晴。終日穴蔵。
 出歩かず、じっとしていることにする。
 エアコン(暖房)稼働させるほどではないが、机に向かってじっとしていると脚が冷えてくる。
 専任料理人に適当な小形の毛布みたいなものはないかといったら、前に文藝家協会から貰ったのを出してきた。
  *
 忘れていた。何年か前に何かの記念(高齢者入りだったか?)で貰った「DAKS」の膝掛けがあったのだ。
 これがじつに快適。
 年齢だけは「文豪」並になったということか。
 荷風散人が膝掛けをしていたかは不明。現場写真では万年床の横に火鉢で、膝掛けはなかったと思う。


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