『マッドサイエンティストの手帳』359
●桂吉朝さんのこと
桂吉朝さん、2005年11月8日深夜死去。
思い出すことが多い。
あまり整理がつかないままだが、備忘録程度にメモしておこう。
吉朝さんと初めて会った日付は正確には思い出せない。
1983年の春と思う。
かんべむさしさんが「抜群にうまい若手がいる」と誘ってくれた太融寺の落語会である。
当時、毎月開かれていた『吉朝・雀松落語向上会』である。
吉朝さんは入門10年目になろうとしている時で27、8歳。
その頃から抜群のスジの良さを感じさせた。
面白くて毎月通い始め、落語会のあと、泉の広場上にあった居酒屋「ふみの」か「百番」で飲みながらしゃべるのがパターンになった。
桂歌之助さんや小佐田定雄さん、それに米朝一門若手と、知り合いが急拡大していった。
いっしょに聴いていたファン諸氏とは今もよく会う。
吉朝さんとは以前ニアミスしていたことも判明した。
1975年、神戸で開かれた日本SF大会「SHINCON」で桂米朝師匠の『地獄八景亡者戯』が演じられたが、この時ソデで太鼓を叩いていたのが内弟子時代の吉朝さんだったという。
ぼくはかんべさんと客席にいて、あとで楽屋を訪ねたから、この時はすれ違いである。
翌1984年、吉朝さんが大阪屋証券ホール(のちにコスモ証券ホールに名称が変わる)で独演会をやることになり、この時の趣向として「三題噺」をやろうということになった。発案者は小佐田さんだったのかな。
演者がその場で作るのではなく、最初に題を貰って、1時間ちょっとで楽屋で書き上げ、 最後に口演するという趣向。作者は小佐田定雄、かんべむさしとぼく。
1984年10月28日、吉朝独演会でやった。この時の題は「レンコンの天ぷら」「ゴジラ」「貯金箱」……まさかハードSF専門のぼくが落語を作るなど想像もしていなかった。落語作法はこの時に小佐田さんから教えられたようなものである。
この時の様子は、かんべむさし『笑い宇宙の旅芸人』に中にドキュメンタリー形式で書かれている。
この趣向は面白かったので、その後、毎年年末近くにある吉朝独演会で、何かやろうということになった。
1985年11月28日の独演会では、ネタ帳に題名が残されているのに噺は不明……つまり題名しか残っていない作品を新作として復活させようということになった。選ばれたタイトルは『死人茶屋』。このタイトルで3人がそれぞれ新作を作るというもの。
小佐田さんは正統派の「茶屋遊び」もの、かんべさんは上田秋成を連想させるような「怪談」、ぼくのはまあ宇宙SF落語である。
これをおもしろがってくれたSFファンがいて、翌年のSF大会(1986年のDAICON5)に桂吉朝さんをゲストとして呼び、『死人茶屋』3席が口演された。(これはビデオで残っている……再見、やっぱりうまいなあ)
1986年11月27日の独演会では、今度は「長編落語に挑もう」ということになり、小松左京さんがアイデア提供(タイトルと冒頭の設定)してくれた『月息子』を、かんべむさし→堀晃→小佐田定雄と、リレー形式で書いて、これは1時間を超す作品になった。
翌1987年12月18日には、再度「三題噺」を行い、また東京でも一度「三題噺」を行っている。
80年代後半は、なんだか青春時代の楽しさであった。
1988年に吉朝さんは「NHK落語新人コンクール」で新人賞を獲得。
その後「上方お笑い大賞」まで色々な受賞歴があるが、忘れられないのは、1990年の「咲くやこの花賞」を小佐田定雄さんと同時に受賞した時のことである。
これは大阪市が(35歳以下の)大阪文化の担い手として将来を期待される新人に与えられる賞である。吉朝さん34歳。
1990年2月1日、授賞式とパーティがあり、共通の友人ということで、かんべむさしさんとともに招待された。
下のはその時の写真。
誰に撮してもらったのだったか。ぼくのカメラで撮影。
なごやかな雰囲気がよく出ている。
この写真は吉朝さんも気に入ってくれ、大きく伸ばしたいからというので、ネガをそのまま進呈した。
このうちの二人がもういないのかと思うと寂しい。
受賞後の吉朝さんの活躍については書くまでもない。
大ホールをいっぱいに出来る人気と実力がありながら、太融寺での会も大事にして、2階の座敷はいつも超満員だった。
芝居や狂言などへも世界を広げていく。
ひとつの大きな飛躍は『地獄八景亡者戯』のネタ下ろしとサンケイホールでの独演会のスタートだろう。
『地獄八景亡者戯』のネタ下ろしは京都の芸術文化会館で、米朝師匠の芸風をもっとも正統的に継承するものだった。
そして1993年5月21日がサンケイホールでの第1回吉朝独演会。
『くしゃみ講釈』と『地獄八景亡者戯』が口演された。
米朝師匠の「秘蔵っ子」から堂々たる落語家に成長したのである。
桂米團治襲名という話は、このころからちらほら聞こえていたと思う。
ただ、吉朝さんは「吉朝」の名が気に入っていて、ずっとこのままで行きたいといったことがある。理由は「吉朝は米朝と画数がいっしょですねん」
吉朝さんの死去を伝える記事の中に「上方落語のホープ」という表現があったが、ホープという段階は1990年頃のことであろう。
産経の「米朝落語の“継承者”」というのが的確だと思う。
ぼくは、吉朝さんは米朝師匠から3年前にすでにバトンを渡されていたと思っている。
このことは、書き出すとくどくなるので、産経新聞に書いたコラムを紹介させていただきます。
この会、早々と売り切れとなり、残念ながら行けなかった。(事務所に頼めばなんとかなったかもしれないが、これはわが美学に反する)
会のあと、吉朝さんから礼状というか、礼FAXを貰った。
体調が悪いとかは仄聞していたが、2003年8月17日の一門会では、米朝師匠の解説にあわせて「蛸芝居」の一場面を実演してみせた。この時の米朝師匠の笑顔は忘れられない。
その後、米朝事務所30周年のパーティがあった。
かんべさんと3人で撮った写真が、いっしょに写ったものとしては最後のになった。
一昨年の国立文楽劇場の「米朝・吉朝の会」は聴いた。大ネタ『三十石』を聴いたのが最後になってしまった。
最後の高座になった今年の「米朝・吉朝の会」には行けなかった。
『弱法師』(これは「菜刀息子」の上方名、桂小南の疑似大阪弁で聴いたのはずいぶん前だ)とは意外なネタだが、何人かの人から聞くに、これは(落語にふさわしい形容かどうか迷うが)鬼気迫る舞台で、ながく語り継がれる名演だったという。
何かのかたちで公開されることを期待している。
50歳、「継承者」として、これから「30年」の活躍が期待されていたのに。
とにもかくにも、惜しいなあ……。
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