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『マッドサイエンティストの手帳』320

●マッドサイエンティスト日記(2004年12月後半)


主な事件
 ・播州龍野の日々(〜18日)
 ・穴蔵の日々(19日〜)
 ・マホガニーホールでODJCパーティ(23日)
 ・大阪←→龍野、いたりきたり(27日〜)

2004年

12月16日(木)
 播州龍野の日常。
 比較的暖かい日がつづいているが、こちらの書斎(昔の勉強部屋)の暖房をなんとか考えねば。と思っていたら、昨年、妹が買った小型のハロゲンヒーターがあることが判明した。
 机の下に置くのにちょうどいいサイズである。
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 膝を暖めるにはまあまあ。昔の「股火鉢」感覚である。
 長時間同じ姿勢だとキンタマがふやけてくるような気がする。

12月17日(金)
 播州龍野の日常。
 揖保川沿いの道を走っていて、何やら工事が始まっているのに気づく。
 川縁の楠の下側。長い水路に鉄板が敷かれ、工事用のクルマが置いてある。
 暗渠にでもなるのか。
 この楠は堀家のランドマークであり、老母の2冊目の歌集のタイトルが『樟の大樹』である。数百年前から、一族はこの樹を見て生活してきた。
 畳堤が作られた時も、職人が「この樹は切れない」と拒否してくれたおかげで残った。
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 ↑「現状」と「今年の夏」
 畳堤は兵庫の風景100選に選ばれて、おれが撮った写真も本に掲載されている。
 この水路は、中学時代まで、よく泳いだ場所であった。
 楠が枯れることはなさそうだが、いったい何の工事なのか、気になるところだ。
 ともかく、楠がダメージを受けるような工事だと許さんぞ、役人さんよ。

12月18日(土)
 播州龍野の日常。
 夕刻、遠路はるばる兄がやってきた。
 盛大にすき焼きでビール。
 午後8時を過ぎてから帰阪。
 この時間になれば電車もガラガラで気分がいい……と思っていたら、三宮からちょっと混む。
 神戸ルミナリエからの帰りの客らしい。

12月19日(日)
 大阪での穴蔵生活再開。
 終日穴蔵。
 溜まっている本を読んで過ごすが、少し読むと眠くなり、半読半眠で1日が過ぎる。
 夜のメニュー。
 マグロのソテーに野菜色々あんかけ? レンコンのミンチ詰め、イカのややこしい味付けの炒めもの、ハムとチーズの薄っぺらいカツにキャベツ、これらでビール、ワイン。
 龍野で作れないものをという専属料理人の工夫かもしれないが、わしゃ同じ材料なら、もっと単純な和風にしてくれた方がありがたいんだけどなあ。
 などというと、自分で作れということになるから、黙っていただくのであった。

12月20日(月)
 終日穴蔵……とはいかず。
 朝、近所の医院へ。龍野にいる間に降圧剤は切れていたのだが、血圧は正常。節制の賜物である。
 雑用あって、珍しくネクタイをして市内をウロウロ。
 本町の某銀行の貸金庫からタイムマシンの設計図を出して、近くのコンビニでコピー、また金庫に戻す。
 この貸金庫、一昨年までは地下の金庫室に入り、壁面にずらりと並ぶボックスを取り出しす方式だった。がらんとした地下室で、他人といっしょになることはまずなかった。
 この雰囲気は、いかにも機密情報を保管しているようで好きだったが、「自動倉庫型」の貸金庫になってから、つまらなくなった。
 1階の隅にある電話ボックス程度のコーナーで、ATMを操作するような雰囲気。椅子もテーブルもなく、立ったまま、必要なものを出し入れするだけである。
 この貸金庫システムについてはちょっと調べたことがある。どうやらこれからは自動倉庫型が主流で、昔ながらの金庫室は姿を消していく流れにあるらしい。
 「密室もの」の舞台が消えていくことになる。

12月21日(火)
 終日穴蔵。
 龍野の実家にいる兄からメール。老母が年賀状を30枚追加してほしいとか。
 「知り合いの多くが亡くなってしまったから」20枚くらいでいいといってたのが、急に元気が出てきたらしい。
 龍野にあるパソコンで兄にプリントしてもらうことにする。
 こちらもそろそろ年賀状の用意をしなければ。
 ということで、データベースの住所録のチェックと修正。
 そういえば、老母は「喪中につき……」のハガキは、自分の場合は、せいぜい49日程度にしてほしいという。つまり、死ぬのが秋口までなら、年末には気にせずに年賀状を出して欲しいというわけだ。
 これは遺言と聞いておくべきか。
 ちなみに、「喪中につき……」というハガキは毎年15、6枚貰う。
 おれが交換する年賀状は約三百枚強。つまり二十人にひとりが「喪中」である。
 逆にいえば自分が出すのは二十年に一度くらいか。大まかな推測をすると、本人か配偶者の親の死亡の場合で、該当者は四人。つまり平均寿命八十歳ということになる。
 この計算、正しいのかな。

12月22日(水)
 終日穴蔵……というわけでもなく、昼過ぎに梅田。
 ハチに寄って、年末の挨拶と、マスター・明利くんとクラLP・CDの情報交換。なぜか近年、クラリネット・ファンになって、古いLP(ピート・ファウンテンなどまで)のコレクションが増えてきたのである。
 ただ、興味の方向がバップからスイングへ遡っていくから、おれとは交差する方向。
 デフランコやトニー・スコットはあまり好きではなく、「アルトサックスで演れることをわざわざクラで演ることはない」ということらしい。
 ま、それはともかく、ジミー・ハミルトンなどをしばらく聴く。
 帰路、扇町公園にも年末の挨拶に寄る。
 ルン吉くん、12月11日と同じ定位置で座っている。寝てないのではないか。
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 銀杏はほとんどその葉を落としている。
 ある晴れた日のルン吉くんは枯れ枝の下にたたずむ。
 これからが本格的な寒さである。わがスケジュールからすれば、今年はたぶんもう会えないだろう。無事新年を迎えてくれたまえ。

12月23日(木)
 昼前に専属料理人と出かける。
 心斎橋のマホガニーホールへ。
 今年のライブは、先月の滝川さんで聴き納めになるかなと思っていたところに、本日、ODJCのクリスマス・パーティ的なライブがあるという。ODJCのホームページの開設に多少協力したからということで、専属料理人ともどもお招きいただいた。なんともありがたいことである。
 主旨はニューオリンズ・ラスカルズ感謝祭ということでもあるらしい。
 ODJCの中核メンバー中心におなじみの顔ぶれ。末廣光夫さんも見えている。
 末廣先生、おれの顔を見るなり、「おい、イタリアで素晴らしいスイング系のクラリネットを見つけた。来年の神戸ジャズストリートに招くことにした。まだ30歳くらいだけど、ともかく素晴らしい」……おれのクラ好きを覚えておられたというだけでも感激である。
 出演は、ラスカルズ、レッドビーンズ、マホガニーホール・ストンパーズの混成メンバー。
 結構なランチをいただいたあと、13時過ぎから、3トランペット(志賀、ピンカラ、池本)の「メリーランド・オー・メリーランド」で賑やかにスタート。
 なるべくクリスマス関連の曲中心。
 といっても、本日は演奏よりも交歓会がメイン。
 プレゼント交換会や「隠し芸大会」(といっても音楽関係だから、意外な人が意外な楽器を演るといった趣向)、それにクリスマス・ソング大合唱など……河合良一伴奏で silent night を歌えるなんて贅沢なことである。
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 17時頃まで。
 例によって住友さんの手締め(今年は某廣さんのモノマネという隠し芸つき)で年の納めとなる。
 写真右は、河合良一さんを挟んで藤本夫人と専属料理人。HPにアップしてくれという河合さんのご指示により掲載。
 帰路……。
 めったにミナミへは来ないから、「新装」されたという道頓堀を見学に行く。
 心斎橋商店街はルミナリエ並の人出である。(といっても、ルミナリエには行ってないけど)
 「ヒッカケ橋」は仮設のまま。道頓堀両側に「とんぼりリバーウォーク」という歩道ができている。夜目にもドロドロの川面が泣かせる。まあ、ニューオリンズのムーンウォークから見るミシシッピーもきれいとはいえないけど。
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 こうして見ると、派手なのはグリコだけで、上流側はビルの汚い裏面だけであることもわかる。これはこれでミナミらしい。
 千日前には新しい食道ビル乱立だが、結構なランチとワインのあとなので、立ち寄る気もせすせず、まっすぐ帰館するのであった。

12月24日(金)
 終日穴蔵。
 プリンターのインク・カートリッジを買いにヨドバシ往復のために外出しただけである。
 銀行のATM、どことも長い列。給料日と休みの谷間と年末が重なって、これは予想できたこと。22日に諸々の処理をしておいたのは正解であった。
 年賀状の作成。
 クリスマス・イブといっても、特別な料理は必要なし……カモ鍋がいいといっていたのに、夕食は、鶏肉グリルとかリゾットなどが並んで、シャンパンなど。
 カモ肉がバカ高いので、結局こうなったのだとか。
 もうこんなセレモニーをやる年齢ではないよ。
 こちらの胃袋はすでに鍋モードになっているのに、酸っぱいマリネなんて食べられない……とぼやきつつワインを飲むのであった。

12月25日(土)
 終日穴蔵。
 年末年始のスケジュール調整でメール錯綜。早朝と深夜のダイヤを調べる。
 青春18切符を使って、大阪←→龍野の「通勤」を検討してみると、老母の起床時間に着いて就眠後に帰阪というのが可能であることがわかる。
 早起きという特技を発揮するべき秋がきたということか。
 Uターン・ラッシュ時の混み具合が予想ができないが。

12月26日(日)
 終日穴蔵。
 インドネシア・スマトラ沖で大地震、タイ、インド、スリランカに津波被害というニュース。
 20年ほど前に行ったジャカルタ沖の水上コテージを思い出す。
 ペナンやモルディブほど有名ではないが、ジャカルタ沖に点在する小島に小さなリゾート施設があり、10日ほど出張していた時、現地代理店の担当者が、土曜から日曜にかけて連れていってくれた。
 ジャカルタの港から小舟で1時間ほどの島。歩いて一周しても30分もかからない。
 こんな小島、施設が無数にあるらしい。
 ガサガサした、石とも砂ともつかぬビーチのベンチでボケーっと過ごしたが、最初に想像したのが津波だった。
 沖合から数メートルの津波がきたら、島全体をきれいに洗い流してしまうのではないかと想像したのである。
 沖合にある漁師用の小屋(下に網が仕掛けてあって、上の小屋に寝泊まりしているらしい/インジネシア青年と、ともにネイティブでない英語の会話だから、漁法の詳細は不明のまま)は5メートルほどの櫓状で、こちらが泊まっている水上コテージより遙かに高いのが気になった。
 映画『ラスト・ウェーブ』を観たあとだったから、そんな想像をしたのかもしれない。
 現地・インドネシアの状況が気になるところだ。

12月27日(月)
 早朝の電車で播州龍野へ移動。
 兄と「ガードマン兼料理人」役の交替。
 うえっ、こちらは寒い。
 午後、一時霙も。
 夕刻……といっても午後6時半だが、寒いので台所にハロゲン・ヒーターを入れて、肉の解凍のために電子レンジを作動させたとたんに、ブレーカーが落ちて、周囲暗黒。ガスの火だけが青白い。
 やばいね、どうも。
 ブレーカーの位置は家の西南角で、居間、玄関の間、座敷と3部屋を手探りで移動しなければならない。
 と、老母が自室へ行って懐中電灯を持ってきた。さすが80年以上棲みついているだけのことはある。
 これならガードマン役は不要か。

12月28日(火)
 播州龍野の日常……いよいよ年末モードに入る。
 諸々の精算、ゴミの処理などのあと、夕方いったん帰阪することにする。
 夜帰宅。
 ニュースで津波の映像が色々と流される。
 ……これらを観ながらビールというのはちょっと不謹慎なのだが。
 専属料理人の感想を聞くに、どうも「津波」と「洪水」の区別がついていないらしい。(というか、「海から来る洪水」と思っているようなのだ。)
 おれ「津波というのは、移動するのは『波』で、海水が移動しているわけやないで」
 専属料理人「でも、海水が押し寄せてるでしょ」
 おれ「河川の氾濫とか土石流みたいに一方通行で流れてくるのとちがう。いったん潮が引いてから津波がくるというやろ。第2波、第3波とくる。海岸近くの海水が隆起して崩れる、それが陸に打ち上がる」
 専属料理人「でも、海から陸に流れてるでしょ」
 おれ「だから、インドネシアの海水がスリランカまで移動したわけやないのや」
 専属料理人「……(半信半疑)」
 おれには啓蒙的解説というのは無理だな。
 それに、おれも、地形や深さで津波の形状がどう変わるのか、まったく知らないしわからない。
 原理的なことだけでものをいうのはいかんなあ。じっさい、現実の映像は頭にあったイメージとはまるでちがう。一言でいえば、ずっと複雑でグロテスク、それだけに恐ろしい。

12月29日(水)
 デジカメ、ハイエンド機を買うことにした。
 先日老母が、米寿の記念に着物姿のポートレイトを撮影してほしいといったのがきっかけである。今度の正月で、数えで米寿を迎える。
 (ついでに、それを葬式用にしたいと縁起でもないことを言い出す)
 「コンパクト機では背景がぼかせへんねん」と、デジカメの機能を説明したら、ポイントは理解したらしく、高級機を買うなら「半分出してあげる」と言い出す。
 ま、ありがたいことであるが、この年になってお小遣いを貰うのもなあ……。
 それに、母の3冊目の歌集はおれが編集するつもりであり、これはおれの写真とのコラボレーションにしたいのである。
 母は龍野から離れたことがなく、生活を詠んだ歌にも、四季の花や樹木がよく出てくる。
 来年はおれも生活の半分以上が龍野になりそうだから、1年かけて龍野の四季を撮影したいと思っていたところであった。
 ということで、結局、DiMAGE A200に決めた。
 デジタル1眼は大きすぎてダメである。
 ・28mm〜のズーム
 ・コンパクトであること
 ・ヒストグラム確認が可能
 ここまでの条件ではPowerShot Pro-1にも魅力を感じていたが、ズームが手動でないことが気に入らない。
 ・ズームが手動
 ・手ぶれ防止
 この2点が決定要因となって(価格、その他の仕様も申し分ない)DiMAGE A200となった。
 決めたらおれの行動は早い。
 開店を待ってヨドバシで512MのCFといっしょに買ってきた。
 終日あれこれいじる。
 たまらんなあ。
 まだ披露できるような作品はなし。
 夕刻、かんべむさし氏来穴蔵。
 先日の「忘年会」の飲み残し焼酎があったので、これをチビチビやりながら、今年最後の雑談会。
 夜、専属料理人と引き続き湯割りを飲みながら報道番組を見ていたら、海外のニュース番組を紹介している中で「tsunami」という言葉が出てきた。
 tidal waveの代わりにtsunamiが使われるという話は本当なのであった。
 ということで、昨夜に引き続き、津波の話題となる。
 おれの専属料理人に対する解説。
 「津波の速度は深いところで速く浅瀬では遅くなる。リゾート地のビーチは浅瀬が多い。浅瀬が深い海に突き出している地形だと、津波は両側が速く真ん中が遅く、ちょうど浅瀬を囲うようなかたちで押し寄せてくる。これで被害が大きくなる」
 津波の速度はルートghという有名な公式があるから、たぶんこれは間違いない。
 「で、浅瀬に津波が接近する。波は海水が流れてくるのではなく、海水が大きく山形に隆起するものだから、現地の海水が集められる。進行方向の前後の水が引き寄せられることになる。後ろ側は深いから海水は多いが、浅瀬側は少ない。津波の前に急に潮が引くのはこのためだろう。で、さらに津波がビーチに接近すると、波の形は、向こう側は山形だが、手前(ビーチ側)は海水が補給されないから絶壁状になる。たぶん壁のようになる。岩とちがって海水だから形を維持できず、たちまち崩れ落ちる。これがドドーッと押し寄せて、陸地を襲う。つまり、津波というのは『海水の崖崩れ』と考えればええわけや」
 ……この説明でいいのであろうか。ちょっと頼りないけど、基本的には間違ってないと思うが。

12月30日(木)
 いよいよ年末の雑用日である。
 穴蔵をかたちばかり掃除。
 昼前に自転車で十三大橋を渡り、十三商店街の『丹波』へ「きさらぎ漬け」を買いに行く。正月前で、さすがに列が長い。30分ほど並ぶ。イラチのおれとしては、普通なら直ちに帰るところだが、老母からも頼まれているからなあ。
 ついでにハチ用も。
 午後、専属料理人とハチに年末の挨拶に出向く。おれは先日済ましているのだが、専属料理人はハチママから「コーヒー豆を取りにおいで」といわれており、ひとりで行ったら「帰り際がなくなってしまいそうだから」というから同行させられることに。
 困ったものだ。
 が、午後行ってみると、看板は暗く、ガランとした店内で明利マスターがひとりで掃除している。昨夜、ここで「持ち寄り材料で鍋宴会」があり、午前4時まで大騒ぎしていたのだという。で、ハチママを含めて、全員、今頃はぶったおれている。マスターひとりが朝から片づけをしていて、やっと終わったとろころだという。
 昨日来なくてよかったぜ。
 ということで、コーヒー飲み、北村英治を聴いて退散。
 夕方、阪急石橋へ。
 居酒屋『ごん兵衛』で活ふぐコース。遠方から帰省してきた昔のグループで年末恒例の忘年会である。
 二次会は近所のスナックでカラオケということになるが、明日が早いので、こちらでは『サーカスの唄』1曲歌って早めの退散。
 カラオケなんて今年この1曲だけではないかな。この選曲、たぶん先日読んだ斎藤燐『ジャズで踊ってリキュールで更けて』(西条八十の評伝)が影響してのことであろう。

12月31日(金)
 専属料理人が用意したおせちや漬物などをバッグに詰めて、早朝の電車で播州龍野へ移動。
 9時に本竜野駅に着いたが、霙まじりの雨、これが急に雪に変わり、10分ほど歩くうちに傘が重くなるような本格的な雪になった。実家に着いた時には一面の雪景色である。
 これでは買い物にも行けない。
 幸い、昼前に小降りになり、午後は回復傾向。
 せっかくなので、DiMAGE A200で雪景色を撮影。
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 老朽家屋も雪を被ると豪邸に見えるから不思議だ。
 龍野の四季の撮影が雪景色からスタートというのはめでたいのであろうか。
 さて……夜である。
 18:30から水炊きで飲み始め。
 先ほどから「受信料ボッタクリ国民的カラオケ大会・カツラ判別大会というオマケ付き」の放映がはじまっていて、老母が見ている。ま、ちゃんと受信料は払っているからなあ。が、わしゃ朝が早かったからもう眠い。皿洗いして、先に眠らせていただきやす。
 皆様いいお年を。

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