危険にしてスリリングなフリージャズの「罠」のごとき入門書である。
もう10年以上前だが、田中啓文さんの『異形家の食卓』について、「ローランド・カークがパワー全開で30分ほど吹きまくるような雰囲気」と書いたことがある。
田中さんがジャズファンであることは知っていたが、この時点で、フリージャズにここまでのめり込んでいるマニアだとは知らなかった。上記の感想に、田中さんは喜んでくれたが、おれもなかなか鋭い読みをしていたと自慢したくなるではないか。
で、その田中啓文さんが書いたフリージャズ入門書が本書である。
フリージャズのミュージシャン約60人を紹介、それでも「10倍くらいの人数を紹介すべき」という。
おれは、フリージャズは詳しくない。ライブ、CD含めて、聴いたことがあるのは1/3くらいである。
その1/3くらいについての論評を読む限り、これは恐ろしく的確にして鋭く、かつ記述がめちゃおもろいのである。
目次を眺めるだけで壮観。
たとえば、セロニアス・モンクを“バップの高僧”と呼ぶが、こんなフレーズがすべてのミュージシャンにつけられている。評論家やファンがつけたのもあるが、多くはオリジナル。「サックスの破壊獣」「グロテスクジャズの魔人」「アリゾナの砂嵐」「知性ある暴風」「北欧の暴れ太鼓」「フリージャズじじい」「笑福亭松鶴のようなテナー」……誰のことかは本書でご確認を。まるでプロレスか極道礼賛みたいだが、すべて的確。
ジャズ書は、紹介文がおもしろすぎて実際に聴いてみるとそれほどでもないことが多いが、本書に関しては、余計な「持ち上げ」は微塵もない。
一例を挙げれば、アーチー・シェップ。おれはファラオ・サンダースは聴けるがシェップはどうも苦手である。
これが、本書では『偉大なヘタウマ』と冠されていて、「(シェップの)どこが好きかと問われると『下手なところ』と答えざるをえない」「先入観を取り払って、虚心に耳を傾けてみたまえ。そう『シェップは下手だ』。そんなことないよという人よ、音はしょぼくて薄っぺらだし、音程は最悪だし、フレーズは少ないし、リズムは悪いし……」いやはや、後の展開は本書でご確認を。「クラシック音楽の世界ではただちにはぶかれてしまう」人物がいまだ現役で演奏し続け、高い評価を受けているところがジャズの深くておもしろいところ、ということになる。
全部がこんな調子じゃないよ。
アイラーが死んだときの感慨や、風雨の中で行われた富樫雅彦と佐藤允彦のデュオのエピソードなど、感動的な記述があちこちに発見できる。
おれは、海外の新しいフリージャズの動きはほとんど知らないし、日本でも、スガダイローや石田幹雄、吉田隆一(SFファンである!)、早坂紗知あたりは聴いているが、まだまだ聴いてみたいミュージシャンがいるのだなあ。
まだ40人以上の音源が待機している。この歳になっても、まだまだ楽しみは残されているのだ。
ついでながら、田中啓文さんも、ペンだけでなく、テナー持って参戦してほしいものだ。
(2012.2.4)
副題は「日本的想像力の70年」。
昨年のSF大賞受賞作『日本SF精神史』の続篇というか姉妹篇というべきSF史だが、そこは長山氏のこと、前著とはまた別の切り口で戦後SF史を語る。
『日本SF精神史』についても本欄で書くべきだったが、読んだ時期が老母の世話で落ち着かなかった時であった。
SF大賞の選評で触れたが、「日本SF150年の通史」という初めての試みで「戦前・戦後をつなぐ記述」が斬新であった。
本書はSFの戦後史だが、この70年間にSF周辺で起きた「事件史」である。
SF周辺の事件史……これはSF内部での事件もあるが、多くはSFの振興にともなって周辺に生じた「SF的想像力」と「現実」との衝突というとらえ方である。
戦後の「空飛ぶ円盤」の解釈から昨年の小松左京の死まで、さまざまな「事件」が取り上げてあって、多くの事件は知っていたつもり(といっても7割程度)だが、こうして通史として並べられると、なるほど納得できるところが多い。
で、当然ながら、おれが関与した(というよりも、中心的役割を演じた)事件も出てくる。
これは奇妙な感覚だ。
『日本SF精神史』について豊田有恒さんが選評でこう述べられている。
「(作品は)労作として大いに評価するが、筆者に関わる部分は、他人に書かれたくないと、返事を書き送った。選者は、裏で他人の悪口はいわない主義なので、不満があるときは、直接言うか書くかする」
この気持ちはたいへんよくわかるが、おれの場合は、判例集にもあちこちに掲載されているし、言いたいことは法廷でも発言した。しかしまだまだ発言したいことはあり、全部「表で発言」することにしている。おれも「裏」ではいわない。そこが今岡清と本質的に違うところである。
この事件に関する記述に関していえば、公開されている資料から客観的に構成すればこうなるのだろうが、一方で、戦後SF史の物語に、とつぜん自分が登場実物として現れたような、不思議な感覚を覚えるのである。
(2012.3.24)
近未来バイオ・サスベンス。
SF大賞受賞第1作。
上田早夕里さん、絶好調である。前の『リリエンタールの末裔』(ハヤカワSF文庫)も秀作揃い(特に書き下ろしの「幻のクロノメーター」が新領域)だが、本書にも勢いがある。
冒頭、主人公・高寺は神戸で友人とビールを飲み、雑踏に出たところで「刃物を持った男」に襲われる。通行人を無差別に切りつける「通り魔」のようだが、これが「アゲート蜂」に刺されたことによる脳障害の1パターンなのである。
近未来の日本、日本は未知の蜂によって破局を迎えている。これがいかに悲惨な状況かが冒頭の「酒場での会話」で語られるが……これは『華竜の宮』冒頭の科学者の会話に似ている。
『華竜の宮』が「日本沈没」の一面を引き継ぐように、これは『復活の日』の上田バージョンではないかと身構えますわなあ。
さて、物語はどう展開するか。
意外にも世界的な破滅に展開せず……小豆島の南、四国沖の小島を舞台とする脱出劇として語られる。
高寺は瀬戸内海の小島で病院の事務長として勤務している。
その小島はまだ「アゲート蜂」に侵食されていなかったのだが、一人娘が「刺され」、その娘を、助かる可能性のある「本土」の病院へ連れて行こうとする。
ここに「AWS対策班」という組織が登場する。被災者を武力で退治していい資格を持つ。
この「班長」村綺の造形がすごい。彼もまた深い傷を持っている。
村綺登場後のサスペンスが凄い。
上田作品の凄いところは、善玉/悪玉、ええもん/悪もんといった、絵に描いたような敵役が登場しないところにある。
非情な追跡者に見えて、これが見方を変えれば、村綺は別作品の主人公になりうるのである。(上田作品における「悪役」については火星ダーク・バラードのわが感想を参照いただきたい)
小島を舞台とする追跡劇のかたちで(島民の生活描写、島の風景描写など、例によって克明)、破滅に瀕した日本・世界のテーマ(そして救済の可能性まで)が凝縮されている。
瀬戸内の小島を舞台としつつも、堂々と『復活の日』に対抗しているのである。
(2012.3.24)
絶好調、福田和代さんの新境地。
もっと先に論評すべきであったが、申し訳ない。1年以上前、福田さんの『ハイ・アラート』が大藪春彦賞の候補にあがっていたことを、大藪春彦賞贈賞式(SF大賞と同じ会場)で知った。選評は、まあ妥当かなと思ったが、『迎撃せよ』だったら受賞ではなかったか、などと思う。
福田和代さんはそれくらい乗っている。
(上記2作についても感想を述べるべきところ、ややこしい時期だったので失礼している。)
で、最新作、『スクウェア』T、U。
冒頭、ストリップ劇場の場面から始まるから驚かされる。これがまたよく書けてるのよねえ(長いこと「現場」は知らんけど)。ともかく福田さんの凄いところはこんなところ。
物語の主人公は大阪府警・薬物対策課の刑事・三田。独身のハミダシ刑事だが、特別な過去(新宿鮫みたいな)を持つわけではない。
周囲にクセのある色々な上司や同僚や部下がいる、群像劇である。
サブ主人公といえるのが謎めいたバー「スクウェア」のマスター・リュウである。
このバーの立地がいい。
大阪・梅田・お初天神通りの路地を東に入った行き止まりあたり。
おれは35年ほどこの界隈をテリトリーとしているが、この路地は気味悪くて入れない。そんな場所である。
昼間見ればこの廃墟ビルの横の路地である。
周辺の描写も秀逸。
『スクウェア』は主にこのバーを舞台とする連作。
ただし、リュウの素性も含めて、大きくは大阪舞台の麻薬事件が進行する。
犯罪とは関係ないエピソード篇も挟まれていて、2巻、ともかく面白い。
福田さんの新境地である。
(2012.3.24)
「私の履歴書」を中心にした自伝。
日経に連載される「私の履歴書」は、財界で、功なりなどと遂げた方の自伝という雰囲気があり、ここに文化系の方が登場すると、空気が変わる。
以前の桂米朝師匠の時がそうであった。
本書は、山下洋輔さんの「私の履歴書」の履歴書をアタマに、自伝的エッセイを収録したもの。
「私の履歴書」連載中は、ハチに切り抜きのファイルがあって、毎日話題になったものだ。
毎回の写真が収録されているのがうれしい。
(2012.3.24)
山田正紀賞の新鋭が放つ「対局」SF。
創元SF短編賞はなかなか凄い才能を誕生させた。
『あがり』の松崎有理さん(については別項で書く)はじめ、その才能はアンソロジー『原色の想像力』(創元SF文庫)に表出している。
なかでも目立ったのが山田正紀賞の宮内悠介『盤上の夜』である。四肢を失った少女の囲碁の世界での活動を通して異様な世界をかいま見せた。
その才気が、チェス、麻雀、将棋の世界に拡大する。
ゲームSFというジャンルはあるが、宮内氏のスタンスは、オタク的な視点からは少し距離をおいている。それは物語の語り手がジャーナリストであることで明らかだ。
これは「宇宙の本質」をテーマとするSFの語り手が天文学者ではなく、近くにいる誰かであるのに似ている(おれの書き方がそうなんだけど/だから共感している)。
たぶん作者本人はそれぞれの「対局」にのめり込んでいるのではあるまい。
それだけに、きわめて知性的に取材され構築された物語が面白いのである。
これは正統的なSFの手法と思う。
注目すべき新鋭の登場である。
ついでながら、麻雀をテーマとする「清められた卓」には、ミステリー作家としての並々ならぬ才能も感じられる。
まさに山田正紀賞であるなあ。
(2012.3.24)
オール新人SFアンソロジー 第2弾。
昨年の『原色の想像力』はSFアンソロジーとして素晴らしかったが、今年の出ました。
第2回創元SF短編賞の秀作集。
おれはゲスト選考委員として参加せせていただいたので、本書の「序」と、巻末の選考委員会の座談会で発言しておりますので、個別の作品については省略。。
何とぞお買いあげをよろしくお願いいたします。
(わが印税のためではなく、新人諸氏の今後のため、さらにシリーズとして引き続き刊行されることを願ってであります)
面白い作品が揃っております。
酉島伝法さんの受賞第1作「洞の街」……月面に穿たれた巨大に「漏斗状の都市」を舞台とする少年の成長小説。独特の造語感覚で描かれる世界は新たな境地を感じさせる。
ついでながら、別途に作られたこの表紙(酉島伝法作)も素晴らしいねえ。
いっそこれを採用してもよかったかも。
ともかくとれたてピチピチのアンソロジーである。
(2012.3.24)
日本SF大賞特別賞『近代日本奇想小説史・明治篇』の「おためし版」である。
ヨコジュンの『近代日本奇想小説史・明治篇』については、今さら述べることはない。
SF大賞特別賞に続いて、尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞も受賞。
いうことないではないか。
おれはヨコジュンの功績に加えて、「本書を刊行したピラールプレスに敬意を表する」と述べた。
SF大賞発表の席でも、同じことをいった。
ともかく、出版されたことが評価に値するのである。
そのピラールプレスさんが、『明治篇』の「おためし版」として同著の「入門篇」を刊行された。
入門編といっても、「明治篇」のダイジェストではない。
「明治篇」に並行して書かれた文章の集成である。
さらには大正・昭和篇の「予告」的な文章も収録。
気に入れば「大著」へどうぞという訳である。
前にも書いたが、おれは『近代日本奇想小説史・明治篇』は、全国の図書館、学校の図書室、漱石鴎外から始まる日本文学全集のある図書室に、ぜひとも並べてほしいと願っている。高い本だし、一家に一冊とまではお薦めしない。
だが、この『入門篇』は、ピラールプレスさんのためにも、ぜひとも個別に読んでいただきたいと思う。
そして、図書館図書室に『明治篇』購入のリクエストをしてほしいと思う。
ともかく、ピラールプレスの功績は素晴らしい。
ヨコジュンの業績を褒めないのかって? 本WEBでは何度も書いてきた。いまさら。Too late!
『近代日本奇想小説史』を出版したピラールプレスに栄光あれ!
(2012.3.25)
橋口幸子「こんこん狐に誘われて」(en-taxi Vol.35)
副題は「田村隆一さんのこと」。
文芸誌「en-taxi」2012年春号。
池澤夏樹氏の震災地訪問同行記や「歌謡曲」特集などがあるが、ともかくずば抜けているのが、橋口幸子さんの「こんこん狐に誘われて」である。
『珈琲とエクレアと詩人』は詩人・北村太郎の見事なポルトレーだったが、本編ではその姉妹編とでもいうか、詩人・田村隆一の「還暦前後」が描かれている。
橋口さんは田村隆一邸の「間借り人」となるが、田村隆一は別居していて、廊下を隔てた部屋には北村太郎がいた。
その時に知り合った北村太郎を描いたのが『珈琲とエクレアと詩人』。
田村隆一が帰ってくることになり、北村太郎は出ていく。
向かいの部屋の主は田村隆一に変わる。
本編では、その頃の田村隆一が、例によって端正な文章でスケッチされている。
北村太郎もそうだけど、おれにとっては、田村隆一といえば、詩人よりも翻訳家である。特にダール『あなたに似た人』はSF系の読書家なら誰でも読んでいて、ダールの名とともに訳者の名を記憶しているだろう。
その「大翻訳家」の日常は、きわめてユニークな爺さんなのである。
筆者にとっては(前に早川書房に勤務していたから)「田村先生」なのだが、それでは気が重いので「大家」と思うことにする。
その大家さんは、朝食の気配がするとパジャマのまま部屋に来て、(酔っぱらっていて/朝からトンカツ弁当でワインを飲んだりしている)延々と海軍時代の話をする。これが毎回、少しずつ変わっていったり。
しかし「酒を切る」時期があって、その時期は黙って朝から机に向かう。
が、また飲み出す。
表題は、窓から見える山で「きつねがおいでおいでしている」のが見えると「飲む周期入り」することに由来する。
ここに描かれている田村隆一が今のおれよりずっと若いことが驚きでもある。
庭に作った風呂で女優といっしょにグラビア撮影するとか、隣室に「早川書房の専務」が訪ねてくるなど、面白いエピソード色々。
特に葉山へ蕎麦を食べに行く話は気になる。ここは「如雪庵」であろう。
山下洋輔さんが一時期住んでいた場所だし、おれは別の関心(『虚栄の市』の舞台ね)で一度訪れたい場所のひとつだ。
今決めた。この連休が明けたら、ぶらっと葉山へ行ってみよう。
(2012.4.28)
50人の「探偵」の包囲網から消えるマルタイ(尾行対象者)の女!
村川は「探偵」であって、社員千人のメガ探偵社の1社員である。もとは数名の探偵社で「職人的」な尾行や調査をやっていたが、探偵業をシステム化して急成長した探偵社に吸収されてしまったのである。なにしろ「探偵社は葬儀社に近い」から「初めての客をいかに獲得するかが生命線」。ということで、明朗会計、「尾行1日5000円」というキャンペーンやったりして客を集める。
調査はシステム化されている。探偵は無線機とCCDカメラとGPSが組み込まれた眼鏡をかけて都内をうろうろしている。持ち場は300メートルほどの圏内。ここに入ってきたマルタイ(尾行対象者)を尾行し、圏外にでると別の探偵に引き渡す。指示はすべて「指令部」からくる。こうして常時200箇所ほどで尾行が行われているのである。もはや職人芸が発揮できる業務ではない。マルタイは次々と受け渡され、1日20件ほどの尾行をこなさねばならぬ激務である。
そんな中で、ある製薬会社幹部から引き受けたマルタイは不思議な女だった。
数名が尾行しても必ずまかれてしまう。これは業界で噂されるアントレイサブル(尾行不可能)という存在ではないのか。
村川はその技量を買われて、50人のチームを率いて尾行することになるのだが、女は渋谷のスクランブル交差点の真ん中で、探偵たちの包囲網から消失してしまった!
再度、体制を整えて調査を進めるうちに、村川は製薬業界の背後に謀略の気配を感じ取る……
『ラガド 煉獄の教室』に続く、両角長彦さんの長編第2作である。
両角さんは先だって短編『この手500万』が推理作家協会賞の候補になるなど、乗っている人である。
この作品でも、何とも不思議な状況と謎を設定している。
50人の尾行者の網の中からの消失なんて、きわめてユニークな密室ではないか。
巨大化した「探偵業界」の描写もリアリティがあって、近未来SFの面白さも備えている。
SFかミステリーか、はたまたサスペンスか。
いやあ、面白い。
両角長彦さんはエンターテインメント領域にユニークな作風を確立しつつあるようだ。
好漢のますますの健筆を祈る。
(2012.6.17)
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