ヨコジュンの「ライフワーク」である。これがとつぜん(といっていいだろう)刊行された。びっくりするよなあ。
*
1218頁、箱入り、1.33s。
『近代日本奇想小説史』の帯の惹句を引用するのが適切であろう。
「正統派の近代文学史からはみ出していた異端の小説の歴史を独自の視点から捉え直した著者渾身のライフワーク!」
正統的な文学史を否定しているのではない。
それとは別に奇想小説(SFもむろん含まれる)があったのである。
SFファンはむろんそれを(ヨコジュンの『日本SFこてん古典』などの著作によって)ある程度知っている。
しかし、このように「編年体」で紹介されるのは初めてである。
体調が悪い(というか精神的な不調)と聞いていたヨコジュンにこんなパワーがあったのかと驚いた。
これはSFマガジンに2002年から2008年に渡っての連載がベースになっている。
この連載は……申し訳ないが、色々な事情で断続的にしか読んでおらず……ここまで壮大な構想で書かれたものとは思っていなかった。
これは正座して読むべき本である。なぜなら目方からして、寝転がっては読めないから……などといってはいかんな。
昨日から読み始め、3、4章ずつ。
何よりも書誌的価値が高いと思う。
著者は(最後の方の談話で)あとに続く研究者を期待しているが、物理的にヨコジュン以上の原典を収集するのはもう無理だと思う。
内容の的確な紹介と作者のデータ、出版事情など書誌的データを細かく記述してあるのがいい。
これからは、この本が一次資料となっていいのである。
特に(まだ全部読んでないけど)押川春浪に関しては、これが決定版であろう。
(以下はまったく個人的な提案である)
まず、本書を刊行したピラールプレスに敬意を表する。
12000円+税と、安い本ではない。
一家に一冊などとはいわないが、全国の図書館には1冊並べていただきたい。
文豪と評価される方々の全集が並ぶ隅に、ぜひとも『近代日本奇想小説史』を置いてほしい。
これはおれの切なる願いである。
近代文学の傍流(←おれは大きな流れと思うが)にこんな「小説史」がある……それこそが文化なのである。
できますれば地元の図書館に購入希望を申し出ていただきたく。
(2011.1.21)
詩人・北村太郎の晩年(といっても、58〜70歳)のスケッチである。
詩人としての北村太郎については、おれはほとんど知らない。朝日の校閲にいた「神様」程度の認識である。
著者は1980年に、鎌倉の借家に入る。その家の「大家」(女性である)のダンナは北村太郎とは昔からの仲間である「詩人」である。
その「詩人」は愛人を作って出ていき、「大家」は北村太郎に相談するうちに、ふたりは恋仲となり、北村太郎がその家に越してくる。
そして著者(フリーの校正者)は北村太郎と隣室で生活することになる……。
それから北村の死(1992年)までのエピソードが綴られている。
北村太郎以外の人物は、ほとんどが一般名詞で表記されているが、これは北村太郎の人物像を浮き上がらせるためのレトリックで、事実関係を伏せるためではない。
出ていった「詩人」とは田村隆一であり、「大家」は何番目かの和子夫人である。
(ただしタイトルの「詩人」は北村太郎のこと。)
このような詩人というか文学者の世界に、おれはほとんど興味はない。老人の「恋愛」にもね。真似たくても真似られないというか。
北村太郎も田村隆一も、詩人というよりは、グレアム・グリーンやドナルド・ダールの翻訳家として覚えているのだから。
この本を読んでみたくなったのは著者の名前に引っかかったからである。
著者は「出版社勤務のあとフリーの校正者」である。
著者・橋口幸子さんが以前勤務されていたのは早川書房であり、1、2度お目にかかったことがある。西日暮里近くの印刷所に近い喫茶店だったりしたけど。
鎌倉が好きで、海が好きで、その後もずっと鎌倉にお住まいらしい。(「港の人」は鎌倉の出版社)
それにしても、人物スケッチ・風景描写(特に海の眺め)・食べ物描写・生活描写は見事で、散文詩に近い描写で北村太郎の晩年の姿がくっきりと浮かんでくる。
こんなに文章がうまい人だとは知らなかった。
出版業界の怖いところは、こんな名文家がすぐそばにいて、その文章に接するまでまったくわからないところである。
今頃になって冷や汗がでてくるような。
(2011.5.28)
平谷美樹さんが新聞連載した、約2千枚の長編である。
時代小説・歴史小説で最も知られているのは忠臣蔵と義経ではなかろうか。ともに歌舞伎の演目でもあるし。
あるいは個人的ヒーローとしてなら、宮本武蔵と義経か。
しかも義経の場合、幼少期(牛若丸)から悲劇的な死(場合によっては大陸まで)に至る生涯がよく知られているし、平家物語との連動など、歴史的な背景も広い。
よほどの着想と筆力がなければ新しい義経像は作り出せない。
これを堂々と達成したのが「平谷版義経」である。
*
この連載が終了した2010年は作者のデビュー10周年に当たるという。
調べてみると、確かに『エンデュミオン エンデュミオン』が出たのは2000年6月1日で、この日におれは平谷さんと「奇跡的な遭遇」を果たしている。
で、この『エンデュミオン エンデュミオン』を読んで、おれは作者の「球筋のよさ」は次の点にあると書いている。
「数多い登場人物の書き分けのうまさ」と「虚実の設定のうまさ」である。
われながらいいことを書いているではないか。
『義経になった男』には、この特質がいかんなく発揮されている。
京都に拠点をおき、奥州までの市場を支配する豪商・橘司信高(黄金の眼帯をした老人である)は、近江で、シレトコロという蝦夷から来た俘囚の子供を見つける。
手のつけられない悪ガキだが、その少年は鞍馬に住む「牛若」という少年にそっくりだった。
橘司はある構想(それは国家の運命を左右するプロジェクトだが)のためにシレトコロを貰い受ける。
シレトコロは奥州に連れて行かれる。これがその後「<沙棗>と名付けられる男の、長い長い旅の始まりであった。」
以上が序章。
こんな調子で紹介してもきりがない。
鞍馬から牛若が京都に出るくだり、平家との合戦、義経の北行、そして奥州の合戦……と、よく知られた歴史は動かしようはないが、作者は想像力全開で水面下の「裏歴史」を描写して、まったく別解釈された歴史を作り上げていく。
義経は武力にも軍略にも優れているが、「影」として仕える沙棗は、義経の頼朝への思いにある「弱さ」を見る。
同時に、自分の理想を実現するために、役割を変えていこうとする。
その結果、奥州の合戦がある種の「戦略的後退」として描かれる展開になるのだが……
「虚実の設定のうまさ」はこのあたりにある。
多くの登場人物、よく知られた人物の新解釈も面白いし、作者が想像した人物の造形も見事だ。
ひとりあげると……おれには禅林房覚日という「悪僧」が抜群に面白かった。
この悪僧は京都で牛若を取り逃がすのだが、その後「はぐれ坊主」となって義経をつけ狙う。これが合戦など要所要所にポツリポツリと(100頁に1度くらい/本当に忘れた頃に)現れる。この出てくるタイミングが実にいい。その間、人にたかったり悪事を働いて生き延びているらしい。悪人だが妙にユーモラスで憎めない。たいていドジ踏んで逃げ出す。
3巻以降になると、覚日がいつ出てくるのか楽しみになってくるほどだ。
作者も連載中にこの悪僧に情が移ったのではないか? あっけない最期を遂げる人物が多い中にあって、覚日は4巻まで(ラストについては触れないが)生き残っているのである。
平谷氏の作家活動10年を記念する傑作である。
そして……この作品は今後の活動にも影響しそうな気がする。平谷さんの活動の軸足が「時代・歴史」分野に移りそうな予感がする。ただ、「虚実の設定のうまさ」という特質がある限り、その作品の面白さはデビュー作以来変わらぬはずである。
(2011.6.16)
2011年7月26日に亡くなられた小松左京師匠の追悼本が相次いで刊行された。
簡単に紹介。
いずれにも(短いコメントなど含めて)寄稿したり発言しております。
小松左京マガジン43号
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今年1月の41号が傘寿祝賀号だったのに、秋に追悼号が出るとは……
とり・みき氏の表紙が素晴らしい。
「虚無回廊」の冒頭(と最終頁)がモチーフである。
追悼号としての内容も充実している。
追悼出版は幾つか企画されているようだが、最初にもっとも濃いのが出てしまった感があるなあ。
『別冊文藝 小松左京』
巻頭に米朝師匠のお言葉、「日本沈没」創作メモ、後半生の秘書であった乙部さんインタビューなど、なかなかの充実。
おれも「追悼トーク大阪篇」に参加し、小松宇宙SFについて短い文章を書いているので、なにとぞよろしく。
『さよなら小松左京』(徳間書店)
河出書房の『別冊文藝 小松左京』と並ぶ総合的小松左京追悼本。
前半に未収録短編や漫才台本「いとしこいしの新聞展望」など。
後半は「小松左京とは何だったのか」を数十人の視点から多角的に論じる企画。
手塚治虫さんとの対談CDも付いております。
小生はかんべむさしさんとの対談で参加しております。
小松左京『虚無回廊』(徳間書店)
最重要作品『虚無回廊』……過去に3巻で刊行されていたものの合本・決定版。
巻末に、山田正紀氏、谷甲州氏と小生の座談会。
初期の代表作『果しなき流れの果に』の後書きに「(最終回を書き終えた明け方、ベッドに寝そべって)いつかもう一度、この主題について書こう」とあり、まさに『虚無回廊』がそれであることで、3人の意見は一致した。あと、細部の解釈はそれぞれ微妙に違いますが、それは本書にて、本編ともどもよろしくお願いいたします。
ついでながら、
SF Prologue Waveに追悼エッセイ。
アレ!に「虚無回廊」解決編ショートショート。
宇宙作家クラブに追悼メッセージ。
など書いております。
(2011.11.18)
上田康介(小佐田定雄監修)『吉朝庵 桂吉朝夢ばなし』(淡交社)
2004年に逝去した桂吉朝師匠……今年が七回忌である。
著者の上田康介さんは吉朝師匠の子息、落語の道には進まず、カメラマンとして活躍している。
その康介さんが、関わりのあった人たちにインタビューしながら、父親の足跡をたどる。
ぼくも、かんべむさしさんといっしょにインタビューを受けた。
太融寺の落語会に通い、ふみので飲み、三題噺の作者になったり……それが吉朝さんが内弟子を明けて間もない頃であったことに改めて驚く。若かったんだなあ。おれも。
その後、芝居(リリパット)や能との共演など世界を広げ、弟子をとり、独演会でサンケイホールを満員にするまでに成長していく。そして最後の舞台まで……。
評伝というよりも、子息の視点から父親を描いた、感動的な物語である。
(2011.11.18)
井上理律子『さいごの色街 飛田』(筑摩書房)
2000年末に飛田新地に興味を持って10年以上、飛田に通い取材を続けて書かれたノンフィクション。
井上理律子さんの著作では2004年に読んだ『大阪下町酒場列伝』が面白かったが、この頃には飛田通いが始まっていたわけだ。
「飛田通い」といっても、客として行くわけでなく(しかし「(女の)私でも店に上がれますか?」と訊ねて塩をまかれている)、煙たがられながらも飛田会館を何度も訪ね、居酒屋のなじみになって取材ルートを探し、電話をくれとチラシを撒き、友人女性に頼んで「面接」にまで行く。
ちょっと真似できない取材力である。
飛田は、おれには不気味な場所だ。
20年ほど前に、歯医者のハラダはんの送別会を米朝一門若手といっしょに「飛田百番」でやったことがある。
ここだけは料亭としての営業だが、ここの座敷で行われていたことを想像すると、そこいらに精液が飛び散っているようで、刺身なんて食べる気がしなかった。むろん周辺の店は盛大に「営業」していた。
昨年、昼間に通り抜けたが、やっぱり不気味だった。
その不気味さは、こちらは観察したいが、こちらがそれ以上の視線で観察されていることによる。昼間は人通りがなく、それだけに、薄暗い店内から無数の視線がおれひとりを注視しているように思えた。
本書を読めば、おれの感覚は間違ってなかったと思う。客には見えなかったはずだし。
店のシステムなどは(おれは店にあがったことはないが)よく知っている。ただ、経営者(楼主)の顔はまったくわからない。
本書では何人かの楼主(元楼主)にまでたどりついて、話を聞き出している。
この取材力はたいしたものだと思う。
そして、おれが感じた不気味さ(失礼な表現かもしれないが、おれにはやっぱり不気味な場所である)の由来が理解できる。
あとがきには、本書は「ある地域や集団に共通する『クセ』の集積」で「学」ではないとある。そして、飛田という地域と、そこに生きる人たちの点描としては、見事に描写された作品である。
同時に、社会学的には「暗部」はまだまだ残されているのだろうな。
特にあとがきにある「新手の斡旋屋の増加」である。
また、鈴木智彦『潜入ルポ ヤクザの修羅場』には、「飛田のケツ持ちは警察」という指摘がある。
飛田は急速に変わりつつあり、やがては警察(とその天下り)に支配されることになりそうな。
飛田新地料理組合が今も橋下を支持しているのかどうかも気になるところだ。
と、野次馬的興味は尽きないが……あとがきに「(本書を読んで飛田へ行ってみたいと思っても)金を落としに行くならいいが、物見ならば、行ってほしくない」とある。そのとおりであろう。
(2011.11.21)
井上雅彦監修『異形コレクション/物語のルミナリエ』(光文社文庫)
異形コレクションでは2007年の『ひとにぎりの異形』以来のショートショート特集である。
3.11の大震災をどこかで意識しつつ書かれた78編。
井上雅彦さんの「小さな物語の燦きが集まって、鎮魂と希望の光となり、闇を彩ることができますように」という序文がいい。
拙作も収録されております。
今年は、3.11とともに、おれにとっては最大の喪失感7.26がある。
かんべむさし氏も同じ気持ちであったようだ。
自作については照れくさいのであまり触れないのですが、本書には多彩な才能が集まって、多彩な光を放ってますので、ぜひともよろしくお願いいたします。
(2011.12.20)
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