編集ノート

 桂歌之助
 飲む前は律儀と遠慮の人なのに

 編集委員の勝手なページ
 (企画から刊行までの雑多なエピソードを思い出すままに)

●編集委員
 編集委員は
   桂 歌々志
   桂 米輔
   小牟田正嗣
   永野一晃
   深尾 壽
   堀  晃
   (50音順)
 ただし、資料蒐集から校正まで、北村維久子さんの尽力なしではこの企画は実現しなかった。
 off
 左から、深尾、堀、北村、米輔、永野、小牟田、歌々志
 なお、この写真は写真家・永野一晃氏がカメラをセット、セルフタイマーで撮影したもの。

●ワープロとパソコン (これは堀が2003年10月にあるフォーラム会報に書いた近況の一部)

 「桂歌之助師匠の残したワープロ文書」
 昨年1月に逝去した桂歌之助師匠の遺稿を本にまとめるために、大量の資料を整理中です。
 (中略)
 歌之助さんはワープロ派で、文章の大部分は「書院」の2DDフロッピー数十枚に残されています。ワープロは製造中止になっており、本機が故障すると読めなくなるのではないか。夫人から相談を受けて、わが旧型MS−DOS機でテキストファイルに変換し、未編集のまま、ともかくCD−R1枚に納めることにしました。
 今年10月からパソコンのリサイクルが有料化されるため、旧型パソコンを廃棄するか迷っていたところ、危ういところで出番が回ってきたわけです。私自身、初期の「文豪」ユーザーで、パソコンに切り替える時に、文書のコンバートには苦労しました。変換ソフトが後継機を売らんがために「非公開」であった時期です。パソコン通信で知り合った(今も面識のないままの)人と協力してテキスト・ファイルに移した記憶があります。歌之助さん以外にも、文筆を専業とする人に、意外にこの問題で困っている人が多いことがわかってきました。(製造中止のワープロを買い集めている作家もいますが、やがて寿命が訪れるのは明かです。)
 結局、MS−DOS機は、いわゆる「3モード対応機」と「5インチ・フロッピー機」、ともに田舎の実家書庫に並べて保管することにしました。「変換業」という新商売が立ち上げられるかなど、さもしいアイデアが頭をかすめる昨今です。

 以上が抜粋した分です。
 ちなみに、小佐田定雄氏もワープロとパソコンの文書が混在。『煙が目にしみる』はワープロのフロッピーをお借りして、テキストファイルに変換しました。
 しかし、今回の文書、半分は蒐集した文書をスキャナーで読みとり、OCRによるテキスト化。変換効率があがったとはいえ……。

●タイトルについて

 タイトル案は編集委員がそれぞれ数案出しあって選ぶことにした。
 20案ほど出たが、大きくは3案かな。
 ・「歌之助事件帳」「歌之助酔生記」といった文集たいとる
 ・「笑てしまいますな」みたいな、歌やんの口癖とか「名言」を使う
 ・川柳の代表句を使う
 色々議論の末、「川柳」案に収束。
 で、候補句としては、
 「米朝にすぎたる弟子がひとりあり」
 「大惨事悲報のかげに歌之助」
 「飲む前は律儀と遠慮の人なのに」
 の3句。
 「大惨事……」は凄いのだが、暗くなるのと、桂文太の作であるから見送り。
 「米朝に……」は米之助・歌之助の合作。これを使って、
 『過ぎたる弟子が』という案は最後まで残った。
 優秀な弟子であるとともに、「飲み過ぎた」「早く逝き過ぎた」弟子でもある。
 が、米輔さんの「うちの師匠は外面はよろしいけど、タイトルになると、内心気を悪るしはるかもしれまへんな」という意見に躊躇。
 「すぎたる弟子」とは米之助か歌之助か、わからんといえばわからん。
 結局、代表句であり、歌やんも気に入っていた『飲む前は律儀と遠慮の人なのに』に落ち着いた。
 ただ、歌やんは飲んでもそう乱れなかった。少なくともぼくは理性を失った歌さんを見たことはない。
 一説によれば、これは先代・文我師匠を詠んだ句といわれている。

●年譜について

 桂歌之助年譜の最初の案は「3段組」であった。
 上段が生誕→学校→弟子入り→結婚……とつづく「普通の年譜」
 中段が出演記録
 下段が独演会のたびにおこった「大惨事」の詳報
 ……ただ、下段に死者負傷者数まで入れるのについては維久子夫人が難色を示した。
 まあ、そりゃそうですわなあ。
 また出演記録については、独演会、太融寺、テイジンホール、ワッハ上方、田辺寄席など主なところはわかったが、30年を超える出演記録は調べ尽くせなかった。
 ということで、まあ標準的な年譜スタイルとなった。
 出演記録と根多、創作落語についてはEXCELでデータベースを作りかけており、「どの時期が不明」というあたりまでは詰めたのだが、このへんが限界であった。

●発行後……

 マスコミ等で紹介された記事は別途掲載しているが、思いもよらないところから手紙やメールをいただいた。東京や九州四国からも。
 なかでもびっくりしたのを2つ紹介。
 ・ひとつは「私は梅田コマのホットシアターで桂扇朝を見ました」というお手紙。
 1970年の「初舞台」であって「もう、あまりにもぎこちなくて見てられないくらいで」それだけによく覚えていた。……まあ、そんなものなんだろうな。
 で、30年以上ブランクがあって「桂歌之助」を聴いて、そのうまさにびっくりされたのだとか。
 「気持ちだけだが花一輪を飾っていただきたい」と過分に振り込んでいただいて、一同感激した。
 ・もうひとつは、歌之助さんは2003年6月に奄美大島往復のクルーズに乗り込んで、この船の中で落語会をやったという。
 この船旅は「大手前高校同窓会」が主催したもので、かなりの年長者(それだけに社会的な地位の高い方々)も多く参加、そんな中での落語会で、たいへん好評だったという。この旅から帰って、しばらくしてから体調不良、入院となる。
 進学校から落語の世界に入った歌之助さんは、しばらくは建築家への夢が捨てきれなかったとも聞く。
 ほとんど「最後の落語会」ともいえる会を母校の同窓ツアーで演れたことはなによりだった。
 これはわかっていたら年譜に記載すべきであった。

●編集委員の近況
 ・「歌之助を偲ぶ忘年パーテイ」を開催。
 ・売れ行き好調なので完売前祝いでちょっと一杯。
 ・そして2004年4月1日、完売記念飲み会を開く。
 桂歌々志さんはJR大阪駅での「駅寄席」や自分の会など、結構出番が多く、なかなかの活躍である。
 また桂米輔さんは来年が「落語家生活35年」になる。桂米輔のホームページも開設! 歌やんが果たせなかった「35周年記念落語会」を予定していて、そのプレ・イベントとして、5月から毎月第4木曜に、太融寺とワッハ上方で「ドガチャカ落語会」をスタートさせる。
 写真家・永野一晃さんは相変わらず全国を走り回って精力的に撮影を続けている。
 深尾壽さんも経営者としての仕事に忙しそうだ。
 小牟田正嗣さんも多忙で、仕事で東京や上海と飛び回っている。
 維久子夫人は、ちょっと脚の具合が悪いとかだが、歌々志さんの会のプロデュースも一部担当している。
 皆さんそれぞれ意欲的に活動中である。
 ということで、本が完売したところで、このノートも終了。
 今度は歌々志さん、米輔さんの落語会でお会いしましょう。
 (2004.4.22)


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