HORI AKIRA JALINET

『マッドサイエンティストの手帳』171

●文学部柏木教授


大阪大学文学部大学院、仏文の柏木隆雄教授に会いに行く。
バルザック研究の第一人者。
SFとは関係なさそうだが、じつは……


 2月前に書店で『謎とき「人間喜劇」』(ちくま学芸文庫)を見つけた。
 5月に出ていたのだから、ちょっと遅かったのだが……著者名を見て、おおおっ!
 慌ててカバーの著者紹介を確認。色々な経歴のあと、現在、大阪大学大学院文学研究科教授である。
 著者・柏木隆雄教授は、わが学生時代の友人なのである。

off  off

 ぼくの経歴にはあまり書いてないが、大学時代、文芸関係のサークルに出入りしていたとがある(ノンSF短篇をひとつ書いている)。SFはほとんど関係なし。SF好きを標榜していたのはぼくだけである。……ただし、小説好きはあまりいなかった。「文学」を道具にヘゲモニー優位を確認したがる手合いが多く、結局、数件の出来事が重なって出入りしなくなった。
 1 ろくに小説を知らぬ手合いが、わが下宿に来て、つまらん議論をしたあと、「へえ、これでも読んでみるか」と「蔵書」を持っていった。エロ本だと思って持っていったのは間違いない。野坂昭如「エロ事師たち」の初版である。腰巻きの表に三島由紀夫、裏に吉行淳之介の推薦文がある。これは34年経った今、まだ返却されていない。。法的には時効かもしれんが、わしゃ忘れておらんぞ。立派な犯罪だよ。食い物の恨みは怖い。当時は食い物を犠牲にして本を買った時代だから、さらに恐ろしい。名指しするが昭和40年代に在籍していた「※※※※」(註)という男だ。どなたかこの「犯人」を知っていたらお伝えください。おれはまだ怒っているぞと。お前みたいな小説のわからん男に持っていてほしくないんだよ。どうせ捨ててしまったのだろうが。※※とはつまらん名前だ。どこかの路地の塀で酔客から小便をひっかけられている姿を想像するなあ。
 2 製図の仕上げで必死になっているところへ十人近くが酔っぱらって下宿に来て、ゴタゴタのあげく、暴力沙汰になった。図面に被害が及ばなかったので助かったが、製図の「締め切り」だけは必須で、これが破られたら留年必至なのである。主犯は加覧とかいうも学内でも暴力事件を起こした男。いっしょにいたのも、ろくでもない連中。
 ……ああ、こんな手合いとつき合うべきじゃなかったなあ。
 他にも被害はあるのだが、こんなこと書き出すときりがない。

 こんな中で、「小説好き」で話が合う数少ないひとりが柏木隆雄さん(くんでもいいのかな?)であった。某鉄鋼会社研究所勤務の経験がある異色の「文学部」の学生で、当時から老成した雰囲気があった。わが下宿から徒歩5,6分の寮にいて、別名「全集男」。数本の書棚に色々な全集がぎしっと並んでいた。メリメ研究がメインだったがジャンルは問わず、圓朝全集もあったと思う。
 よく行き来してしゃべった。
 SFの話はしなかったが、英文学についてはよくしゃべったし、ずいぶん教えてもらった。ぼくは当時「怒れる若者たち」が好きで、シリトーやマードック、ジョン・ウェインなどはよく読んだ。エイミスの「ラッキー・ジム」(ぼくは福田陸太郎の訳本を苦労して探した)が面白いといったら、柏木氏はペンギンの原書を買ってきて一読、色々解説してくれた。語学力は際だっていたなあ。イヴリン・ウォーについてもご教示を受けた。この内容については「囁きの霊園」に関してどこかに書いたときに利用させてもらったなあ。遅くなりましたがお礼申し上げます。
 柏木氏は大学院に進み、ぼくは就職して、世界がまったくちがうものだから会う機会もない。確か神戸女学院に就職と聞いたことがあり、女子大を訪ねる機会もないしなあ……と思っていた。
 なんと母校の教授であったのだ。それなら学部は違うが、研究棟の横を何度も通っていたのである。
 ちょうど近くへ行く用事もあり、前日に電話してみると、うまく連絡がついた。

 11月1日の夕刻、教授室を訪問する。
 いやあ懐かしいなあ。30年ぶりである。わしは薄くなり教授は白いものが増えたけど、10分ほどしゃべっていたら、たちまち時差解消、話題もほとんど昔のままである。
 石橋の小料理屋に場所を変えて、えんえんとしゃべる。
・研究がメリメからバルザックに変わった事情。
・フランス留学時代のこと。
・最初の著作がフランス語で書かれたというのが凄い。「かっこいい」なあ。ぼくも英文でオリジナルを発表して山高昭さんに訳してもらうという夢があったが、実現は不可能になった。柏木教授のは「未訳」である。
・シリトーのその後。
・落語ネタをひとつしゃべったら、「それは、筑摩の太宰治全集第3巻にある短篇が参考になる」と恐ろしい指摘。近いうちに図書館に走らねば。
・柏木教授もCD−ROM「古今東西噺家紳士録」は持っているという。さすがだ。
・30年以上前に作ったパロディ詩(「雀がチュンチュン」などと本気で短歌に書いたのがいたのである。それをからかった詩を作った)。お互いちゃんと覚えていた。つまらんことをよく覚えているのはお互いさまである。柏木教授はつまることもよく覚えているのである。
・そばの大食いで「名が出た」田舎者がいるという。指導教授の「指示」を愚直に実行したのだという。それが今ではどこかの大学のセンセ。その男の昔を知るだけに、さもありなんと思う。けったいなのばかりだなあ。
・阪神大震災。西宮在住。地震の日は夫人とともにパリにいた。帰国すると周囲は全壊が多く、八角形の館は、蔵書を想定して基礎が頑丈にしてあったので無傷。散乱した本を親族が整理してくれたところで帰国したという……なんともすごい強運・悪運の持ち主である。いずれ見学させていただくことにする。
……その他色々。
 SFの話はあまりしなかったなあ。ただしバルザックに古典ホラーのパターンの短篇があることは聞く。

 肝心の『謎とき「人間喜劇」』について書かねば……。
 ただ、これ、まだ読了していないのである。
 人間喜劇はいずれゆっくり読もうと思いながら、「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」その他数冊しか読んでいない。これを機会に、論じてある作品と並行して読んでいこうと思う。評伝的なところなどを読んで行くが、これはきわめて高度な研究書であると同時に、読み物としてもじつにサービスが行き届いている。語り口は昔からの柏木節……これは少数の者しか知らないが、細かいディテイルからの考察と意外なエピソードを混在させる語り口で、昔からの芸なのである。
 挿絵が多く収録されているのも楽しい。
 丹念に書かれた労作であり、ぜひともロングセラーになってほしい。


 「※※※※」(註)について
 アップして1年以上経った2002年の正月、とつぜんメールを貰った。ここに実名を記載していた人物からで「お詫びのしようもありません」という丁寧な詫び状である。本人の目に触れるなど想像もしていなかったので驚く。現在、ある大学の教授で、むろん書物の大切さはわかっている立場、当時の生活が粗野であったということらしい。研究室の学生(SFファン)から教えられたという。
 まことに乱暴な書き方をしていて申し訳ないのだが、削除、改竄もへんなので、匿名にいたしました。
 まあ、当時の小説に対する情熱と鑑定眼を自慢したかったのが本音である。
 が、やはり、半分は正直な気持ちである。
 当時は本が高かった。部屋代が一畳千円の時代で『エロ事師たち』は360円か380円。今だと3、4千円の感覚である。
 それだけに、迷ったあげく、無理してでも買った本が多い。下宿にあった本はすべて今も実家の書庫にある。そしてSF以外でも、希覯本になっているのも色々ある。……たとえば、「本の雑誌」などで時々話題になる中原弓彦『汚れた土地』(講談社)もちゃんと所有している。箱入りで、箱の背に北杜夫の推薦文がある。こういう部分が大切なのである。……と、また自慢になった。
 SFファンである学生氏にお礼申し上げます。本は残念ながら戻りませんが、本件は解決いたしました。
 (2002.1.7)


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