HORI AKIRA JALINET

『マッドサイエンティストの手帳』101

●怪文書騒動

 わが居住する集合住宅で管理人交替に関連して怪文書が出現した。
 理事という立場上、対応にてんやわんや。おかげで貴重な3連休、ほとんど自分の原稿が書けぬまま過ぎてしまった。
 が、同時に、狭い地域社会における怪文書のオソロシサも実感したのであります。

 1999年3月19日正午に近い時間である。出張から直接会社に帰着したばかりのところへ、自宅から電話がかかってきた。
 なんでも昨夜、「怪文書」が住んでいる集合住宅の郵便ボツクスのほぼ全戸に投げ入れられたのだという。
 なにごとか! と驚いたが、なんでも管理人がクビになったのを糾弾するような内容らしい。……居住する集合住宅の管理組合・理事(副理事長で総務・広報を担当している)の手前、放っておくわけにもいかず、「うちのボンクラ息子の母親兼女中兼専属料理人……以下、家人と略す」に臨時の理事会開催の連絡を指示する。ややこしいことである。
 さて、このページをお読みの皆さんには、マンション管理に関する「怪文書」なんて面白くもないだろう。
 まして、その管理人がどうの理事会がどうのと説明しても、わずわらしいだけである。  そこで、まずその「怪文書」をお目にかけ、逐語的コメントを加えることで、事情説明に替えさせていただきたい。
 この後で、「怪文書」についての考察を加えたい。

 これが3月17日深夜から18日早朝とおぼしき時間に郵便ボックス約100個に投入された「怪文書」である。
   off
 サイズはA4。ワープロ文書のコピーで二つに折られている。

 「怪文書」に著作権はない。……と、断言しかねるが、著作権者が明記されていないので特定のしようがない。以下全文引用させていただくが、無断引用とおっしゃるなら、実名でご連絡願いたい。 冒頭のマンション名だけは伏せてある。あとはすべて原文どおり。

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管理人さんが管理人をやめざるをえない
          理由をご存じですか?

「…当マンション名……」には、住民の為の有料駐車場があります。料金は理事のK氏が中心に決定したそうです。しかし、そのK氏が私的に無断駐車を数十回繰り返していたようです。これに関して管理人さんは善意から黙認しておられた様です。
このことが理事会で問題になり、誰がそういった不正行為をしているのか問い正され管理人さんが仕方なくK氏である事を言った所、K氏は管理人による住民に対する個人攻撃だとし、管理会社にクレームをつけ、急遽管理人さんが解雇される事に至ったわけです。日頃から皆さんは管理人さんの人柄等、よくご存じと思います。管理人さんが黙認していた事にも問題はあったでしょう。ただ、個人で無断使用していた不正を謝罪するどころか管理人解雇という管理会社へ圧力をかける理事こそが問題なのではないでしょうか。
同じマンションに住む住人として、そういった人物が存在し、しかも理事である事にとても不安を感じます。今後もこのような事が平然と繰り返される可能性が大きいのです。その対象はあなたになるかもしれません。住民一同、K氏と管理会社に対して断固、抗議すべきではないでしょうか。これは怪文書ではありません。皆さんに事実・真実を知っていただきたいのです。
管理人さんは3月20日でやめられます。せめて1年程の短い期間でしたがそのお礼と励ましの一言を皆さんどうぞさしあげてください。
そして、問題の発端をよく考え今後の生活に是非とも活かしたいものです。
この文書を作成するにあたり実名はふせますが、あなたのその行為が人の人生をも左右することがあるという事を一人の人間として考えませんか。
今からでもあなたが正すべき事なのです。人間として.....

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以下、事情説明をかねた逐語コメントである。

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「管理人さんが管理人をやめざるをえない/理由をご存じですか?」
 タイトル秀逸。人間が人間をやめざるをえない、男が男をやめざるをえない、など、なかなか哲学的であり、魅力的で怪しげで、応用がききそうだ。同義反復に見えて、前者が個人、後者が立場。これを、 M管理人が管理人という役職を解かれる、としたのでは面白みがない。相当な才能と見る。むむ、お主なかなかやるな、といった印象である。

「…当マンション名……には、住民の為の有料駐車場があります。料金は理事のK氏が中心に決定したそうです。しかし、そのK氏が私的に無断駐車を数十回繰り返していたようです。これに関して管理人さんは善意から黙認しておられた様です。」
 まず、K氏というのが誰かに興味が湧く。が、該当する人物がいないのである。理事の中にひとりK姓の人がいるが、この方はクルマを所有せず駐車場も利用しない。怪文書が架空の人物を非難するのでは著しく迫力を欠く。実名にしなくては。……後の調査から、これはどうやら別人と推量できることになるのだが、それでは「漢字を読み間違えた結果」Kという表記になったということで、怪文書としては、ちょっと間の抜けたことになってしまった。強打者登場、のっけに空振りといったところか。グリコ森永犯はこんな間の抜けたことやらなかった。
 有料駐車場というのは、来客や業者の短時間駐車のためのスペース。ここを一定時間以上は有料化したのである。……ただねえ、もしこれが事実だったとして、従来無料だった場所を有料化した中心人物が無断駐車を繰り返すというのはおかしいでしょ。いい出さなければ無料で使えるのに。また、それを管理人が黙認していたのなら、「善意」というよりも「職務怠慢」というべきでしょうなあ。

「このことが理事会で問題になり、誰がそういった不正行為をしているのか問い正され管理人さんが仕方なくK氏である事を言った所、K氏は管理人による住民に対する個人攻撃だとし、管理会社にクレームをつけ、急遽管理人さんが解雇される事に至ったわけです。」
 わしゃ、副理事長という立場上、月1回の理事会(これ、結構負担なんでっせ)に欠席したことはないが、こんな事実はない。また、管理規約、その運用から、一理事のクレームで業務委託している管理会社がその雇用人たる管理人を解雇することなどあり得ない。どこから聞いた話かしらんが、冷静に考えてみなよ、「差出人不明の文書」の差出人さんよ。

「日頃から皆さんは管理人さんの人柄等、よくご存じと思います。管理人さんが黙認していた事にも問題はあったでしょう。ただ、個人で無断使用していた不正を謝罪するどころか管理人解雇という管理会社へ圧力をかける理事こそが問題なのではないでしょうか。」
 あのねえ、大部分の住人が「管理人の人柄を知る」時間もなかったのが問題のひとつなの。契約上、勤務時間は「午前9時から午後5時まで」 これを「墨守」する上、正午から午後1時まで「休憩」として事務所不在・無人化してしまう。さらに勤務時間にも「息が詰まるから」と事務所に詰めず、集会室でテレビを見ている時間があまりにも長いものだから、理事会に苦情が寄せられていたほど。ともかく、管理人の顔を見たことがない住人がいたり、「え、ここ管理人、いるの?」という外来者までいたほど。
 この点を口うるさく注意した理事の方がいたのは事実だが、どうやらこのことを根に持たれた気配濃厚である。困ったものである。

「同じマンションに住む住人として、そういった人物が存在し、しかも理事である事にとても不安を感じます。今後もこのような事が平然と繰り返される可能性が大きいのです。その対象はあなたになるかもしれません。住民一同、K氏と管理会社に対して断固、抗議すべきではないでしょうか。」
 その対象はあなたになるかもしれません、というところが白眉。論理をすりかえる呼吸が見事である。管理を委託している会社から派遣されている管理人と、委託主である管理組合の組合員では、立場はまるで違うのだが、これをするりと入れ替え、さらに自分は人の後ろに隠れて「皆さん」に抗議行動をアジるレトリックは、まさに怪文書のお手本といえる。これをさらに敷衍すれば「同じ社会人として」「同じ日本人として」「同じ人間として」と拡大するのだがなあ……と思ったら、案の定、最後の方にこのとおりのフレーズが出てきたので笑ってしまった。

「これは怪文書ではありません。皆さんに事実・真実を知っていただきたいのです。」
 あのねえ、これを怪文書といわずして何というのよ。文章も「怪」なら内容も「怪」、配布方法まで「怪」の一字である。歩きながら小便をして「これは立小便ではありません」というようなものですがな。

「管理人さんは3月20日でやめられます。せめて1年程の短い期間でしたがそのお礼と励ましの一言を皆さんどうぞさしあげてください。/そして、問題の発端をよく考え今後の生活に是非とも活かしたいものです。/この文書を作成するにあたり実名はふせますが、あなたのその行為が人の人生をも左右することがあるという事を一人の人間として考えませんか。/今からでもあなたが正すべき事なのです。人間として.....」
 お涙頂戴型で終わるのがもの足りないが、まあ日本的ムラ社会的生活密着的怪文書としては、これが代表的パターンかもしれない。「あなた」への呼びかけで終わるところなんぞ、なかなかのテクニックですなあ。

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 さて、この文書が投入されたのは、一方の当事者たる「管理人」が交替する2日前である。理事会でゴタゴタ、この祭、本人から事情を聞いてみようと、「管理人の居室」のブザーを数回押したが、いっさい応答なし。外からは、室内に明かりがついているのがわかる。居直りか、電灯つけっぱなして外出か、布団かぶって萎縮しているのか? いずれにせよ感心できる態度ではない。こちら、因業金貸しとかサラ金の取り立てじゃないんだからね。

 翌日、管理会社の人間が確認したところ、「怪文書を見るのはこの時が初めてだが、この文書とほとんど同じ内容のことは、自分が複数の人に話した」と管理人が発言。
 ついでに直接事情を聞きたいという理事会からの申し入れに対しては、もういまさら話したくもないと拒否。

 話の出処がはっきりしたことで、この「怪文書」事件、著しく迫力を欠くものとなった。
 噂を吹聴した人物ははっきりした。
 この人物はワープロは打てない。怪文書をばらまいたのは本人ではあるまい。
 頭は悪くない人物なのだが、老人特有の思いこみがあったのか、あるいは計算されたものなのか、いずれにせよヒマにまかせて、思いのたけを複数の居住者に「語り込んだ」のは間違いなく、それが怪文書配布につながったとしか思えないのである。
 つまり、それを本気にした人物が文書にして配布した。
 そうなると動機は「義憤」か? ちょっとよじれた正義感か、浪花節的義侠心か? 愉快犯ではあるまい。それだともっと文体に遊びがあるはずだし。

 一般に「怪文書」は利権にからんで登場する。事実無根のデマをまことしやかに記述して相手を貶める。むろん、貶めようとする相手は実名表記、「告発」事項は具体的であるほど迫力がある。
 だが、今回の怪文書は「間違った略称」でいかにも間が抜けている。
 匿名で配布いる意味すら希薄なのだ。
 「匿名」での告発が正当性を持つのは、発言者が特定された場合、その生命や身分が危うい場合に限られずはずである。
 独裁国家や官僚体制、会社組織における内部告発がそうで、ばれると死刑、投獄、馘首、左遷……それでも危険を省みずあえて発言しなければならぬという、切迫した場合に限られる。
 論談同友会のホームページなんて、玉石混交ですがね。

 と、ここまで考えて、はたと思い当たった。
 この怪文書の主もけっこう身の危険を感じたのではないか。
 都会のマンションとはいえ日本的地域社会である。そこで深夜か早朝、約100個の郵便ボックスに怪文書を投入した。ピンクチラシが問題になる昨今であるが、誰かに目撃されたとしたら、ピンクチラシでは済まない。誰それさんが怪文書を入れてたわよ、と、狭い地域社会における社会的信用の失墜は必至である。

 それがどんな気分か。
 さっそく実験してみたくなり、3月20日午後10時頃、家人を伴ってロビーに降りた。デジカメで現場を撮影してもらうためである。
 いやぁ、緊張しますね。血圧暴騰の感あり。いつ誰が帰ってくるか、とつぜん1階のドアが開かないか。ロビーは明るく、ガラス扉に反射して、外は見えにくい。誰か外から帰ってきたとしてもわかりにくいのである。
 100枚のチラシを投げ込むには、1枚1秒(これも慣れてのスピードである)として、計算では2分足らずだが、その緊張感はとても普通の神経で耐えられるものではない。
 もしこの間に誰かが来て、「おい、何を入れとんじゃ!」と怒鳴られたら、心臓が止まってしまうかもしれない。下のようになるわけである。

 off off

 いや、実際この「実験中」にも、知人ひとり見知らぬ人ひとりが通過、何やってはりますねん的不審眼で一瞥されましたがな。こういうことやっとったのです。
 なかばあきれつつ撮影してくれた家人にお礼申し上げます。

 ああ緊張した。こんなの、ばれたらとてもここには居住しておられませんわ。
 牛の刻参りを目撃されたらこんな気分になるのだろうか。
 血圧にも心臓にもよくない。「リハーサル」でこれだから、わしにはとうてい「本番」は無理だな。
 それだけに、この「怪文書」が本物であることを思い知ったのでありました。


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