雑読雑聴 4
眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)
この本のベースとなった『日課・一日3枚以上』については眉村卓・悦子夫妻を励ます会のところで触れている。あれからもう3年近くになるのか……。この時は1500話を過ぎた記念でもあった。その後278日、闘病生活が続いたことになる。
本書は闘病の記録や「日課」の内輪話だけでなく、悦子夫人との出会いから作家生活まで広く回想されている。
『日課・一日3枚以上』に未収録の作品も。
で、ここからは派生して浮かんだまったく個人的な感想である。
眉村さんの趣味のひとつは「小旅行」(というよりも、散歩の延長みたいな近郊都市散策)と、それにともなう「立ち食いそば」である。
特にJR姫路駅ホームの駅そばがベストワンであることで、ぼくとまったく評価が一致しているのである。
ここからはぼくの想像である。
眉村さんは大学卒業後、耐火煉瓦メーカーに就職、1年間ほど岡山県の工場勤務だった。確か三石。
悦子夫人は大阪で勤務されていた。
となると、この間、会うとなれば、その場所はほぼ中間点の「姫路」ではなかったか。
新幹線も新快速もない時代。ともに2時間近くかかる。
休日に姫路で会い、一日を過ごして、夕刻、ホームで東西に別れる。
ダイヤは(今もそうだが)姫路以西、急に不便になる。
上りホームで村上青年が悦子さんを見送るかたちになる。
電車が去ったあと、ホームに「駅そば」がある。
これから工場の寮に帰っても、田舎町だから食堂もない。日曜の夜だから店も開いてないだろう。
そこで岡山方面への電車を待つ間に「駅そば」を食べることになる。
眉村さんの駅そば愛好はこの頃から始まったと想像しているのだが、ちがうだろうか。
ちなみに昭和30年代のはじめ、ぼくは龍野市から姫路に通う中学生であった。SFマガジン創刊の2、3年前。駅前の御幸通り商店街でおふたりとすれ違ったことがあるかもしれない。「関西SFのつどい」でお目にかかる5年ほど前である。
(2004.6.2)
中山一江『GOGOおばさんとバックオーライ』(東京図書出版)
闘病記がつづく。
副題は「脊椎小脳変性症を二人の荷物として」。
著者はぼくの小学校同級生、同窓会で47年ぶりに会って、この本を知った。
旧姓が加藤さんで、かとうかずえという天才歌手と同名だったからよく覚えている。利発を絵に描いたようなコだったが、その後の運命、特に50歳を過ぎてからは天才歌手以上に波乱に満ちている。
「GOGOおばさん」とは彼女の、「バックオーライ」はご主人の、それぞれハンドルネーム。思いつけばすぐ行動に移す、背後から慎重にアドバイスする、それぞれの性格を表しているらしい。
その慎重な性格の銀行マンであったバックオーライ氏は定年後の生活を考える年齢になって、とつぜん「言葉がもつれ」「雲の上を歩くような感覚」を覚え「文字がうまく書けなくなる」……脊椎小脳変性症という病気をぼくはこの本で初めて知った。
ここからの彼女の行動が凄い。
終の棲家であったはずの「緑の多い大阪郊外の邸宅」をあっさり売却(宅建の資格を取っていたから交渉は全部自分でやったという)、通院に便利なマンションに引っ越す、免許をとって治験薬の入手や治療のために東奔西走する、さらに治療のために神奈川に再度転居する……。
想像するだに気が重くなる話……というか人生設計を何度かやり直すような苦労だが、その筆致は明るく快活、「明るい介護をめざして」という姿勢のとおりである。
読後、この病気のことを少し調べて、いかに難病かがわかってきた。
あくまでも彼女の積極的行動を軸にした記録。病状を克明に描写するのはつらいところがあるだろう。
ただ、同世代の男としては、バックオーライ氏の症状が気になる。
がんばってほしい……としかいいようがないなあ。遠くから応援していたいと思う。
(2004.6.2)
中野晴行・編『マンガ家誕生。』(筑摩文庫)
中野晴行氏企画によるマンガ家の「自伝的作品」アンソロジー。
中野ランプ氏、いろんな企画を思いつくなあと感心。
やっぱり手塚治虫「紙の砦」が突出している。
この作品、わが住まいから自転車で5、6分の淀川堤防が舞台になっている。実際に勤労動員されたのは北野高校があった淀川の北側だが、淀川堤も手塚作品の原風景だと確認できるだけでうれしい。
その他、当然トキワ荘が舞台になる作品が多くなるが、さいとう・たかをだけは異彩を放っているなあ。ぼくは今里の出身だと勘違いしていた。
この種のアンソロジー、ミステリーやSF作家のもほしいところだな。エッセイは多いが、小説にも(デビュー作ではなく)デビュー事情を反映したのは色々ある。SFでならたちまち数編思いつくが(眉村卓さんの幾つかの短編、筒井康隆「ベムたちの消えた夜」とか半村良「虚空の男」みたいなの)、やはり少数かな。私小説ではないし、フィクション化の新アイデアがそう出そうにないからかな。
(2004.6.2)
福江純『最新天文小辞典』(東京書籍)
辞典をひとりで作るというのはたいへんな仕事である。しかもそれが、辞典としての役割(調べたい時に要求に応えてくれる)をきちんと果たしつつ、ついでに関連事項を読み出したら、読み物としても面白い……そういう辞典は本棚のいちばん便利な場所に置くことになるが(座右の書というよりも、ぼくの場合、左手ですぐ取れる位置に置く)、まあ滅多にあるものではない。ぼくの場合、代表格はアシモフの『科学技術人名辞典』である。
そのアシモフの辞典と並ぶことになったのが福江純さんの『最新天文小辞典』。
最新の天文学辞典として太陽系から宇宙論まで網羅されているが、さらに拡大して、宇宙開発や宇宙生命、一般物理、単位系まで。最新の話題が概観できる上に、言葉の語源が詳しく記述されているのが特長。(たとえば「自由落下」とか「ウラシマ効果」など、関与したSF作家や作品まできちんと押さえられている)
しかも、日本のフォワードともいえる人だけに、SF的な話題やオーパーツなど微妙な領域まで含めているところが凄い。
読み物としてさらに面白いのは福江さん自身の研究体験やSF体験がエピソードとして読める点だろう。NASAの微少重力実験の公募に提案したアイデアがどんなものだったのか、知りたくなるなあ。
……と、SF的想像力を刺激されるところが何よりもいいのである。
話が少し広がるが、宇宙SFの醍醐味は「新しい天体」にあると思う。70年代のブラックホール、80年代の降着円盤、90年代の「異形の惑星」……新天体を先取りするのもいいし想像力で創り出すのも面白い。本書にもリングワールドから林譲治さんの人工降着円盤まで色々と取り上げられている。この辞典に一項目、独立して取り上げられる新天体を創れたらなあ……と、ともかく一項目読むたびに色々と興奮させられる凄い辞典である。
(2004.6.14)
田中啓文『蹴りたい田中』(ハヤカワ文庫)
「よくやった」「よくやるぜ」「ここまでやるか」ついでに「よくやらせるぜ」も……感嘆呆然仰天ついでに諦観までがブレンドされて湧き上がってくるアンソロジー。こりゃ雑誌の別冊として緊急出版するべき企画かな。
内容の紹介は省略。
半分くらいは読んでいたが、色んなパターンが書き分けてあるのに改めて驚く。表題作が感動の戦意昂揚的愛国文学だとは思わなかったもの。
何よりも各編に寄せられた弔辞……なんでしょうなあ、この本は「遺稿集」なんだから……のメンバーが凄い。
「よくやらせるぜ」というのは、周辺にいるこういう立派な方々が田中啓文の傍若無人を後押ししている雰囲気があるからである。
特に、なんといっても浅倉久志氏の弔辞が素晴らしい……というか、浅倉さんの弔辞があるだけで、野暮な非難や帯を真に受けたマジメな抗議に対して、葵の御紋入り印籠を手に入れたようなものだからなあ。
ジャズ畠からの弔辞もほしかったところ。あ、恩田陸さんのがそれか。
(2004.6.14)
長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)
自伝的小説……というより、ちょっと切ない青春小説というべきか。
長谷邦夫さんの名は44年前、ぼくが高校生の時から知っている。「宇宙塵」の先輩会員としてである。
大学時代、大阪のSFファン何人かがフジオ・プロを見学に行ったことがある。この時に案内してくださったのが長谷邦夫さんだった。ぼくは残念ながら…夏の実習かなにかだったと思う…行けず、フジオ・プロや虫プロの話を聞かされてくやしがったのを記憶している。
次に長谷さんの名を聞いたのは山下洋輔さんから。70年代のはじめ、最初の欧州ツアーの同行者としてである。
お目にかかって話すようになったのは70年代後半になってからだろうか。
むろんこの時には『東海道戦争』や数々のパロディ漫画、それに『まんがNo.1』(ペニスゴリラのソノシートはきちんと保管している)を読んでいて、愛読者といえる立場であった。
SF関係の会などのあと、何度か酒場でいっしょになったことがある。聞きたいことが色々あったが、物静かな方で、あまり噂話はされなかった。
興味はやはり赤塚不二夫との関係である。
本書では投稿少年だった高校時代、トキワ荘時代、そしてフジオ・プロ時代と、数々の興味深いエピソードが語られている。特に『東海道戦争』が出るまでの経過がすごい。(書庫から探して再読したが、やはりこれは傑作である。……それにパロディ漫画では、ゴルゴ13とムジ鳥が出会う「峠のムジ鳥」が傑作だ)
これが「小説」と銘打たれているのは、赤塚不二夫との出会いから別れまでを軸に語られているからだろう。
ぼくは、なんとなくエリントンとストレイホーンのような関係を想像していたのだが、天才漫画家との関係はもっと複雑だ。
井上夢人『おかしな二人』が一種の恋愛小説と読めるように、これもまた恋愛小説でもある。
SF版でこんなのを書く人はいないかなあ。
(2004.6.22)
中野晴行『マンガ産業論』(筑摩書房)
本欄では中野晴行さんの編著書をよく取り上げている。これはむろんそれぞれが面白からであり、少しでも広く読まれるよう応援したい気持ちもあるが、それ以上に、SF、ジャズ、落語、大衆芸能など、ぼくと関心境域の多くが重なっていることが大きい。これは、お互いの精神形成に大きく影響した共通の人物(おれにとっては中学高校時代の親友、中野さんにとっては叔父になる)がいたためである。このことを書き出すと長くなるので別の機会に。
ただし、マンガに関してだけはちがう。ぼくは手塚治虫をSFの恩師と考えていて、その後のマンガもSF中心に読む程度。熱心なマンガファンではない。
中野氏とってはマンガは関心の中心であり、手塚治虫は創造神であり、そして中野氏は長年マンガに職業的に係わっているプロである。
この違いがなぜ生じたのか……それが『マンガ産業論』を読んで氷解する思いである。
これは極めて個人的な読み方になってしまうが……本書は「ヘビーブーマー世代」の成長を軸に「産業」としてのマンガの構造を解明するという、極めて壮大な(一種の戦後史ともいえる)試みだが、その中心仮説が極めて説得力を持つということの、ささやかな傍証でもある。ぼくは「活字SF」に興味を持ったところでマンガを卒業しており、大きなムーブメントの2,3年先を生きてきたのであろう。購読の実態なども含めて実感できる。
本書は産業としてのマンガの構造を分析した、おそらく初めての本格的研究であり、中野氏の代表的著作のひとつになるだろう。
市場形成過程の整理から現状分析、そして読者の高齢化やデジタル化による変化の予測と提言まで、多くの視点から総合的に論じられているが、論旨の軸は明快でまったくブレがない。教えられるところの多い著作である。
ついでながら……幻の名著『球団消滅』が文庫化されるらしい。球団の合併や1リーグ制で騒がしい今、議論の前にまず読んでほしいのがこの本だ。ナベツネとはちがう、極めて魅力的なオーナーがかつて存在したというのがわかるだけでも値打ちものである。
(2004.7.28)
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