HORI AKIRA JALINET
雑読雑聴

  

雑読雑聴 3


菊地成孔『スペインの宇宙食』(小学館)
 
 とんでもない異才がいたものだ。
 ジャズメンの書く文章は面白い。性格の面白さ、生活自体が刺激的であること、文章が音楽的など、色々あるが、菊地成孔のそれは、それらを総合した上に、さらに哲学的考察と天性ともいえる「文才」でさらに突出している。
 この世界では山下洋輔以来の才能だろう。
 菊地成孔さんは、山下洋輔氏とのデュオを数回聴いている。もう十年近く前になるのかなあ。いずれも大阪のハチで。
 「おじいさんの古時計」のテナーは今でも耳に残っている。
 その時に、菊地秀行氏の実弟ということも聞いていた。
 印象に残っているのが、演奏後の雑談で、銚子での漁師料理とか、まぐろの切り落としを使った賄い料理がいかに旨いかをちょっとしゃべった時で、ほんの1,2分だったと思うが、もう聞いているだけで生ツバが湧いてくるほど、その味覚表現がうまかったのである。
 さすがに血筋だなあと感心したのだが、『スペインの宇宙食』に出てくる料理描写はその期待を遙かに上回る。
 いや、食べ物だけではないのだ。
 巻頭の「放蕩息子の帰還」に出てくる、190センチほどの漁師と150センチほどの小柄なヤクザの喧嘩を描写した部分など戦慄を覚える。なによりも擬声語の使い方が凄いのだ。これは文才に加えて、音楽家の聴覚がなければ到底成立しない。
 味覚、聴覚、触覚その他五感を総動員した描写力の凄さが、自己のバンドの成立過程を記述するに至って、哲学的境地にまで止揚される。
 その他、音楽や映画などに関する論考、どれもこれも刺激的で面白い。
 圧倒された。長時間ライブを聴いた、心地よい疲労感でもある。
 いや、異才というのはまだまだいるのですなあ。
(2003.10.10)

中西秀彦『本は変わる!』(東京創元社)
 
 副題は「印刷情報文化論」。中西秀彦氏の「活字が消えた日」から8年目の活字文化、出版、ニューメディア、さらに広く表現行為全般の現状と未来を考察した「書物」。しかし、この「本」そのうち電子本になるという。
 出版状況を考察した(主として「嘆く」)本は多いが、著者が印刷会社の経営者でもあるところがユニークである。しかも、筋金入りのSFファンでもあることが、「近未来」予測を厳しいが、また夢のあるもの(ブレードランナー的未来もまた「夢」ということで)にしている。
 中西氏の状況認識は明確である。
 「すでに、産業としての『本』は終わっている。昔のままでの方法では、その製作費用を支えるだけの部数が売れなくなってしまった。」
 これはぼくも2年ほど前から実感としてわかっていることであった。
 ではどこに「夢」があるか。
 本書の後半は印刷というよりも、インターネット中心に「情報文化」がどう変わろうとしているかのルポルタージュでもある。だいたいは知っているはずが、へえここまでという動きもたくさん紹介されている。
 生活が成り立つかどうかは別にして(それが肝心だろうかといわれてもなあ……)、これからも「情報文化」(小説もそのひとつ)に係わっていきたいという元気が湧いてくる本である。
(2003.10.21)

高木信哉『ドクターJazz 内田修物語』(東京キララ社/発売・三一書房)
 
 一昨年の日野元彦の評伝「東京Jazz」につづく高木信哉氏のジャズ評伝である。
 内田修氏はいわずと知れたジャズファンの鏡。ひとつの理想像といえる人である。コレクターにして研究家、なによりもジャズメンの駆け込み病院の院長として知られていて、その患者になったジャズメンだけで日本最高のバンドが組めるという。
 いつか誰かに書いてほしいと願っていた本である。
 これは評伝というより「聞書」だろうな。「評」という要素はほとんどない。
 その理由ははっきりしている。内田修氏が表に出たがる人ではなく「あなたがいいジャズを聴いているとき、振り向けばそこには『ドクター・ジャズ』が微笑んでいることだろう」と書かれている通り。ぼくも何度かご挨拶したことがあるが、たとえばラヴリーでなら、わしゃ森山威男のかぶりつきに近い場所をと席取り合戦するのであるが、振り向けば、内田先生はいちばん後ろのカウンターで聴いておられた。……こんな奥ゆかしい方を描く場合、その語りを再現するだけで十分なのである。ジャズへの愛情が深すぎるから、ネガティブな面への言及など出てくるはずもない。
 高木氏は(たぶん)聞き役に徹して、その話をベースに周辺を取材して肉付けしていった……という方法を採られているのだと思う。「私」はほとんど出てこない。「筆者は……」という注記的な文章が2,3箇所出てくる程度である。これは最善の方法で、それでも東京〜岡崎の往復はたいへんだったと想像する。
 その少年時代からの行動範囲の広さ、体力、知力、好奇心の旺盛さ、ただ感嘆。海外旅行の章にも驚くし、レーシングについてはまったく知らなかった。
 ただ、やはり面白いのはジャズメンとの交流に関する記述である。
 ジャズメンに関する記述も当然「内田修が見た」ジャズメン像と考えていい。
 戦後から最近の寺井尚子まで数多くのジャズメンが顔を出すが、なんといっても富樫雅彦に関する章が群を抜いている。(いずれはこの章を一冊にしてほしい)
 それと、やはり高木氏らしく「ヤマハ・ジャズ・クラブ」のデータが充実していて、これをたどるだけでも懐かしく楽しい。(この中の数回はぼくも聴いている)
 そういえば内田修ジャズコレクションも充実してきたなあ。まだ訪ねていないが、今度ラヴリーに行く時には岡崎まで足を延ばすことにしよう。
(2003.11.23)

阪本順治『この世の外へ クラブ進駐軍』(松竹)
 
 来年2月公開予定の松竹映画。未公開の映画について書くのは気が引ける。昔「スターウォーズ」騒ぎの時、先に見た人間が細部まで書きまくりしゃべりまくった嫌な記憶があるからである。
 しかし、テーマがある意味で極めて「今日的」なので、これから観る人の感興をそがないように注意して少しばかり。
 戦後間もない頃に軍人として来日したジャズメンと日本の若いジャズメンの交流と聞いて、モデルはハンプトン・ホースかなと想像したが、そうではなかった。色々なエピソードは取材してあるようだが、阪本順治のオリジナル脚本。
 復員してきた軍楽隊にいた楽器屋の息子(テナー)を中心に、それぞれ戦争の傷をひきずるメンバー五人を描く青春群像劇である。A列車で始まりA列車で終わる、演奏曲目等については「聴いてのお楽しみ」として触れない。
 阪本順治は9.11からこの映画を構想したという。
 だが、その後のイラン情勢をみると、この映画のテーマはより切実なものになっている。
 試写を観る前日、わしゃアメリカン・デモクラシーの変質を、湯割り飲みながら専属料理人相手に嘆いていたのである。
 アメリカ最良の文化はジャズと西部劇であった。(西部劇はジョン・フォードかハワード・ホークスであって、間違ってもブッシュの好きな「ハイヌーン」ではないぞ)
 今のイラクにジャズが流れているかというと、おそらく演奏されていまい。背後のアメリカ自体が変わってしまったのである。……まあ、小学時代に鉱石ラジオで沖縄放送のジャズ番組を夢中で聴いたオッサンの愚痴である。
 『この世の外へ クラブ進駐軍』で描かれるのはぼくより一世代上だが、この雰囲気にかすかに記憶している。それだけに胸に迫るものがあった。
 戦後の混乱期から、兵士たちが朝鮮戦争勃発で前線へ去るまでが描かれている。
 萩原聖人(テナー)がちょっと松本英彦の雰囲気であるのをはじめ、役者もそれぞれ持ち味を出しているが、意外にも、唯一のプロ・ミュージシャンのMITCH(トランペット)がなかなかの存在感である。バーベキュー・スインガースでの演奏は何度か聴いているが、役者としても坂田明さんクラスになるのじゃないか。
 極めて今日的な作品。公開時……イラクがよりややこしくなってないことを祈るばかりである。
(2003.12.9)

嵐山光三郎『口笛の歌が聴こえる』(新風舎文庫)
 
 嵐山光三郎の実質的なデビュー作。
 60年代後半の渋谷・新宿のクロニクル風自伝的……というよりモロに実録小説。
 この時代、ぼくはほとんど大阪にいたが、何度かカスミのあった渋谷には行っているから、街の雰囲気は多少覚えている。まあしかし、とんでもない時代だったのだなあ。
 のっけの「丸合田」という英語の教師に驚かされるし、なんといっても三島由紀夫の描写が面白い。平凡社は無茶苦茶だし、唐十郎はおっそろしいし、映画関係者が大暴れしていたバーについては仄聞したことがある。まあ、わが生活から考えれば、とても恐ろしくて入っていけない世界だ。……そしてジャズ喫茶にいた殺気だった男が逮捕されたのは、ぼくが社会人になって1週間目であったなあ。研修所から工場に移動するクルマの中でラジオのニュースを聞いたのを覚えている。
 ノスタルジーで感想を書いたのではきりがない。
 ちょっと泣かせるのが、立川の米軍基地にいたジャズ友の米軍兵士がベトナムへ去る件りである。
 つまり『この世の外へ クラブ進駐軍』の状況が、この時代、また繰り返されているのである。
(2003.12.9)

山本弘『神は沈黙せず』(角川書店)
 
 山本弘氏の『時の果てのフェブラリー』以来の本格SF、しかもと学会会長が神と超常現象に挑んだとなれば、注目しないわけにはいかない。
 大部の長編、一気に読ませるが、「SF作家」と「と学会会長」の拮抗、と学会会長パワーが圧倒的というべきか。両者は背反するものでなく、むろんかなりの部分が重なっているのだが、と学会会長としての蓄積が見事に「語り込まれて」いる。それも、オカルト、新興宗教、UFO、超能力……とストーリー展開に無理なくはめ込まれて「解説」まで兼ねているからたいした筆力である。
 が、SF的大仕掛けが出てくるのが後半を過ぎてからで、(伏線部分が出てくるのが全497ページの208ページ目、ここでゾクゾクが生じるが、ここから349ページまでがすごく待ち遠しい気分になる)「SF作家」側が少し後退したかなという印象も受ける。
 これは古いセンス・オブ・ワンダー派としての、ぼくの読み方の限界かもしれない。
 「宇宙消失」はむろん面白かったのだが、やはり「現地」に向かってほしかった気がする。どうように、本作品でも、「現場」へ行くのは無理としても、シミュレーションで納得してしまわず、現地へ探検に行くのだと主張する「集団」とか探査機を送るグループがいてもいいように思う。どうせこの世が終わりなら、全財産をはたいて宇宙へ行こうというアホは必ずいるはずである。
 それにしても「神の顔」は圧倒的なイメージだ。
(2003.12.9)

上田早夕里『火星ダーク・バラード』(角川春樹事務所)
 
 上田早夕里さんの「デビュー作」ということになるが、ぼくは短篇を数編読んでいるから、「初長編」の印象で読み始めた。選評では「火星SF」である、「女流ということを強く感じさせる」、新聞の紹介は「SFハードボイルド」。これらはすべて当てはまるのだが、これらを含めて、圧倒的な人間ドラマであって、しかも、短篇ではわからなかった膂力を感じさせる本格SF。
 舞台は「パラテラフォーミング」の進む火星。全表面が地球化した世界ではなく、火星の自然は残り、要所要所が巨大天蓋で覆われた巨大人工都市という、古典的SFの火星とサイバーパンク的人口都市が混在する設定。主人公のひとり水島(刑事)は、「凶悪犯」ジョエル(女ばかり数十人を惨殺している)を移送中に、奇妙な「幻覚」に襲われて犯人を逃す、しかも同僚射殺の疑いまでかけられる。同じ列車に乗り合わせていたのはアデリーンという少女。彼女は「プログレッシブ」と呼ばれる「新人種」で、彼女のもつある能力が係わっているらしいことがわかってくる。
 ……これだけなら、人工的な火星の都市を舞台に刑事、超能力少女、凶悪犯の追いつ追われつのサスペンスSFになりそうだが、この背後にさらに仕掛けがある。アイリーンの「父親」グレアムは天才学者でしかも火星の権力中枢に近い地位にいる。水島を追いつめる「黒幕」はグレアム。この存在感が大きい。「プログレッシブ」という存在もグレアムが「宇宙への進化」への情熱から作り出した存在なのである。(こまかい説明はネタバラシになるので省略/単なる超能力者でないところがいい)
 アイリーンの水島への「恋愛感情」と父親グレアムへの愛憎が物語に深みをもたらす。キャラクターがくっきりと書き分けられているが、意外にも(といっていいと思う)いちばん凄みを感じさせるのがグレアムの性格描写なのである。物語の表面からは「悪役」ということになるが、この「悪の哲学」が人類の進化にからんで(少年時代の宇宙船事故の描写が見事に効いている)極めて魅力的かつ説得力があるのだ。
 グレアムが語る「地表の重力から自由になった」存在……これは、ぼくも似たことを考えたことがある。唯一の長編の主人公をスペースコロニー生まれにし、惑星表面には一度も降り立たない設定にした。これは単に想像で書いただけで、太陽系外に吹き流されていくデラシネみたいなイメージにしたかったのである。……これが、本作品では進化論に結びつけられて、一種の哲学として語られるまで深化している。
 短篇ではテーマを持て余していた感じだった上田さんの「物語作家」としてのパワーが大きく開花した印象。ぼくは、「女流」という印象をほとんど感じなかった。それもグレアムの魅力故であろう。
 弱点というか不満をひとついえば、グレアムに比べて、もう一方の悪・ジョエルが後半影が薄いところかな。この男もまた歪な進化の所産かなと想像したのだが。
 しかし、ともかく堂々たる長編デビュー、次作がどんなテーマになるのか楽しみである。
 小松左京賞受賞作はバラエティ豊かだなと改めて思う。
(2003.12.9)

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