「宇宙法廷ノート」3
【NOTE】
SF大賞受賞
受賞の電話もとつぜんかかってきた。
1981年1月14日(水)、正月気分は抜けているものの、明日が休日ということで、ボンクラサラリーマンどもが街に浮かれ出ている頃、謹厳な勤め人であるぼくは、さっさと帰宅して晩酌を始めていた。午後7時30分のことである。
電話が鳴り、家内が出た。「小松さんからです」
おっ、お呼出しか……とグラスを置いて、テーブルの上の料理をちらっと見る。この時刻、時々小松左京氏から電話がある。たいていはプラザホテルの事務所での仕事に区切りがついて、帰るまでにSFの話がしたい時に、ぼくかかんべむさしに声がかかることがある。事務所までは自転車で10分ちょっと。先週、小松事務所の新年会があったばかりなのだが……。
「あ、どうも……」
「おお、いたか。星さんと替わるからな」
ええっ、星さんが来られているのか。……妙なもので、関西在住のSF作家の先輩諸氏は高校生の頃から知っているから緊張することはないのだが、東京の方、とくに星新一さんとなると別格である。とくに、この時には、(後述するが)ちょっとややこしい問題をかかえていたので、その件が頭をかすめる。
「やあどうも、おめでとうございます」星さんの、おなじみのややくぐもった声が伝わってきた。
「あ、どうも、あけましておめでとうございます」まだ松の内である。
「いやいや……今、あなたの『太陽風交点』が日本SF大賞に決まりました。おめでとうございます」
「えっ……ええっ……あの……」とつぜんのことで、どう返事をしていいのかわからない。
「……ということで決まったから、辞退するなんていったらダメだぞ」電話はまた小松さんに替わった。「それから受賞式には会社を休んでもらわないといかんが、奥さんも連れてきてくれ。今からプレス発表するから、今夜、新聞関係から問い合わせがいくかもしれない。内容は徳間から確認の連絡がいくから……」と例によって早口の説明があって「ともかく、おめでとうございます」
「今日が銓衡委員会だったのですか……ただ、ええっと、どうしたらいいのか……」
「困ることあらへんがな。銓衡委員会の決定やから、堂々と受けたらええのや」
「はい、どうもありがとうございます……」
あまりにも突然で、まるで実感が湧いてこない。
「じゃあ、銓衡委員が揃っているから、ちょっと替わるからな」
「やあどうも、おめでとうございます」これは聞き慣れた筒井康隆氏の声である。
……以下、豊田有恒、伊藤典夫、鏡明の各氏。
順序はどうだったかな。一言ずつ祝いの言葉をいただいた。どんなことをしゃべったのか覚えていない。ただ、鏡明とは、まあ気安い間柄ということもあって、「なんやらえらいことになったなあ」と伝えたように思う。
電話が終わって、まだ、どう喜んでいいのかわからない。
「えらいことになった……」強いていうなら、こんな気分であろうか。
とつぜんの受賞といっても晴天の霹靂というほどではない。日本SF大賞の大綱は、SF作家クラブでも何回か議題に取り上げられてきたし、昨年すでにSFアドベンチャーに発表されている。ただし、候補作も銓衡日も発表されないことになっている。候補作のアンケートがあって、ぼくは「ある作品」を推薦している。ぼくは作家としてよりも読者としての鑑定眼の方に自信があり、受賞作は「その作品」になろだろうと、かなり自信を持っていたのである。
「SF大賞を受賞した……」電話を切って、たぶんそんなことを家内に伝えたはずである。家内がどんな言葉をいったのかは、よく覚えていない。記憶しているのは、授賞式にはいっしょに来いといわれていると伝えたときに、
「何を着て行こうかしら……」
といった意味のことを口にした。これだけはよく覚えている。まあ女というのは、こんな場合、いうことは同じなんだなあ。
呆れる間もなく、SFアドベンチャー編集長の菅原善雄氏から電話。プレス発表の内容の確認とか授賞式の日程についての連絡など。授賞式は2月5日にグランドパレスでという。つづいて石井紀男さんに電話がかわる。「ええっと、急なのでありますが、SFアドベンチャーに『受賞の言葉』をいただきたいのでありまして……」「あ、いつまでに書けばいいのでしょう」「もう、すぐにでもいただきたいわけでありまして」
月末発売の3月号に発表である。……明日、電話送稿ということにする。(この頃、までFAXは普及していないのである。)
徳間との電話が終わって、さて何かするかと考えたものの、なにも思いつかない。しばらくビールを呑んでから、かんべむさしに電話した。かれだけには最初に知らせねばなるまい。
この時も、どんな話をしたのかほとんど覚えていない。喜んでくれ、お祝いをいってくれたことは確か。あと、やっぱり「えらいことになったなあ」とぼくがいって、いや、気後れする必要はなにもない、こんなことの繰り返しであったような気がする。
午後10時頃になって、ニュースが拡がったらしく、色々と電話がかかってきた。山田正紀、横田順彌から祝電話。……サンケイから経歴その他についての問い合わせがあったあと、夜中になって鏡明から電話。「銓衡委員ではなく一友人として」というほど大げさな前置きはないけれども、銓衡経過の雰囲気を差し障りない範囲で教えてくれた。(ずっと後になって一部漏れ聞いたが、この時点では候補作が何だったかは聞いていない。ただし、かんべむさし『言語破壊官』が候補であったことは間違いない。ぼくはこれを押していたのであるから。しかも、わが鑑定眼は相当のものと自負しているからである。)……鏡は、やはり宇宙SF・ハードSFはSFの初心みたいなところがあるから、それに、豊田有恒さんが「これはぼくがある時期目指した方向だった」と押してくださったことなどを、ちらっと教えてくれた。
……夜中に兄・堀龍之に電話した。某大手通信機メーカー勤務、「移動体通信」という部署にいる兄は、たぶん日本でも指折りの多忙な人間であるから、連絡がつくかなと思ったが、帰宅していた。
「えらいことになったんや」……と今夜の経過を説明する。
ぼくと兄の関係を説明しておかないと、この電話の意味がわからないかもしれない。ふつう男兄弟というのはあまりいっしょに遊んだりしゃべったりしないものらしい。趣味も性格も違うとか聞く。となると、うちに関しては例外中の例外になるのだろうか。SFに関しても他の趣味に関してもほとんど重なっていて、今でも機会があればいっしょにライブハウスへ行く。特にSFについては、ぼくの中学時代から色々と議論してきた間柄。短編集『太陽風交点』の巻末にある「悪魔のホットライン」については、合作として、雑誌掲載時には兄弟連名になっている。まあそんな間柄である。
「そらよかったやないか。貰える賞ならなんでも貰っとけ」
兄はこう祝いというか激励というかを述べてくれた。
これが受賞決定の夜の出来事すべてである。
1月15日が成人の日で休み。サンケイに受賞の記事。『受賞の言葉』を石井さんに電話送稿。午後にはかんべむさしご夫妻がワインを持って祝いに来てくれた。夕方酒盛り。この間、お祝いの電話と祝電など。
……ここから「お祝い」のラッシュ、幸せの絶頂から、やがて暗雲だ垂れ込め、地獄の修羅場へと落ちていく……となればドラマチックなのであるが、別に生活に大きな変化があるわけではない。
1月16日(金)の早朝5時半に2歳4ヶ月の子供をたたき起こし、親子三人夜逃げするかのように6時38分新大阪始発の「こだま」で東に向かう。……といってもSF大賞とは関係ない。ぼくは豊橋で降り、家族はそのまま静岡へ向かう。
毎年、正月には、家族を家内の実家に帰して、ぼくひとりSF浸りになるのが習慣なのだが、この年はそれが半月遅れたのである。ぼくはクレーム処理で豊橋に出張、途中までいっしょに移動したわけである。
ただし、これからの一週間、ぼくが在宅しない限り、電話には誰も出ない。このことは重要である。……ぼくが不在の自宅に電話がつながったとすれば、いったい電話口に出たのは誰か? まるでミステリーみたいな話だが、後に登場する原告側証人の証言と不可解な矛盾を生じることになる。
ともかく、1月16日(金)朝から21日(火)の夕方までは、ぼくがいない限り、自宅の電話に出る人間はいない。逆にいえば、この間、夜中であろうが電話にはぼく本人が出た。この間の慌ただしい電話対応のなかで、暗雲が立ちこめていくのである。
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