HORI AKIRA JALINET

『マッドサイエンティストの手帳』205

●いろいろ読む(ノンフィクション篇)

ひきつづきノンフィクション……


巽孝之『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)

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 『日本SF論争史』で40年近く論争を快刀乱麻の筆さばきで整理してみせた巽氏が、こんどモノリスの謎に挑んだ。
 これは、数ある巽氏の著作で最も刺激的なみのである。
 ぼく自身、「2001年宇宙の旅」は封切り時に見ている。それどころか、映画を見てから間もない1970年5月に上京した時、柴野さんのお宅へ伊藤典夫さんと訪問、ここで2時間近くこの映画を話題にした記憶がある。むろんメインはモノリスとスターチャイルドの解釈。伊藤さんはいうまでもなく原作の訳者であり、柴野さんも宇宙塵に「前哨」を訳されたのではなかったっけ。ともかくクラークの最大の理解者で……それから30年、論点はこの時に出尽くしていた印象がぼくのアタマにずっとあったのである。伊藤さんは30年間、「3001年……」まで、ずっとこの問題を考え続けておられるが、大きな枠組みは当時に出来上がっていた……と、これもぼくの思いこみである。
 『「2001年宇宙の旅」講義』でいちばんの目から鱗(何枚もウロコが落ちたのだが)は、ともかく30年経過していて、その間にクラークも大きく変わっているという事実。
 クラークの活動を考えると、
 1951年『宇宙への序曲』  1968『2001年』  1997年『3001年』
で、時系列的には「2001年」は作家生活では「前半」の作品に当たる。
 読んだ立場からいうと、
 1965年『太陽系最後の日』  1970年『2001年』……以後、翻訳順。
 つまり最初の5年で『都市と星』も『幼年期の終わり』も『海底牧場』も『渇きの海』も読んでいるわけで、影響のされ方からいうと、2001年は「後期の作品」なんだよなあ。こっちのアタマが固まっているわれだ。
 1章、2章の論考がすばらしく、印象だけで述べるが、モノリスの変貌を通して、この30年間のSFの変貌が概観できる……具体的には、ぼくには数作品の印象でしかとらえられなかった「サイバーパンク」がはじめて概観できた感じだ。
 つまり、混沌としたサイバーパンクの世界をモノリスがすーーーーーーーっと周囲を照らしながら通過していったという印象である。


永瀬唯『腕時計の誕生』(廣済堂出版)

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 サイバーパンクとモノリスに続いて、こちらはサイバーパンクと腕時計。
 腕時計の誕生と発展を描く技術文化史だが、腕時計を「人間の本来的な機能を拡張する、しかも身体に密着し、埋め込まれた最初のサイボーグマシン」という、極めて斬新な視点でとらえている。
 永瀬氏の技術史家としての最良の仕事のひとつ。
 前の『欲望の未来 機械じかけの夢の文化誌』(水声社)でクリシンをばっさり斬ったチェリオ流過激さはなく、ただ格調高い筆致である。
 読後、自分の腕時計(15年以上愛用しているクォーツだが)を見ると不思議な気分になる。
 アポロ月着陸時の宇宙飛行士の腕時計なんと、なんだかレトロ・サイエンスの雰囲気になってくる。


長山靖生・編『懐かしい未来』(中央公論新社)

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 そのレトロ・サイエンスを珍しい古典SFをベースに論じたのが『懐かしい未来』。アンソロジーでもあるのだが、解説というか論考部分が面白いので、便宜的にノンフィクションに分類。
 明治・大正・昭和初期の「未来小説」アンソロジーで、これをベースにあり得たかもしれない未来技術や先駆的な予想が論じられているが、基本的な姿勢は「想像力の豊かさ」の再検証だろう。
 幸田露伴『ねじくり博士』(露伴が「理系作家のはしり」であったとは驚きだ)から海野十三『地軸作戦』まで15篇収録、読んでいたのは数編だけ。ロボットに関する章に直木三十五の短篇が収録されているが、なかなか先駆的で、日本ロボットSF史もちょっと見直す必要があるのかなあ。
 それにしても長山靖生氏、どこにこんなパワーがあるのだろう。古典SF研究から科学誌、文芸評論、歴史偽造の研究まで、近年、めざましい活動を続けておられる。ぼくも「二足のワラジ」生活を30年以上続けたけど、とてもこんなパワーは継続できなかった。ただ頭が下がる思いである。

瀬名秀明『ロボット21世紀』(文春新書)

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 さて、レトロ科学から一転して、こちらはロボット科学の最前線ルポである。
 『ミトコンドリアと生きる』(角川書店)、『「神」に迫るサイエンス』(角川文庫)がともに専門(というか、『パラサイト・イヴ』『BRAIN VALLEY』の世界)に近いノンフィクションであったのに対して、これは最近の好奇心の対象のひとつらしい「ロボツト」の最先端をルポした研究書。……その精力的な取材ぶりを垣間見ているだけに、やはりこの人のパワーも凄いなあと感嘆してしまう。
 現実のロボット開発、人工知能、ロボコン、ロボカップ、SFとロボット、ロボットの未来……と、SFファン(ならずとも)の関心事はほとんどカバーされている。数多いロボット解説書の中では、まず最良の一冊だろう。
 で、瀬名さんの講演(主にSFに対するアンビバレンツな思い)がネットでも話題になっている。この資料はすごく面白い。……ふつう印象批評で発言すればいいところまで、全部テータを蒐集・分析の上で発言するという瀬名さんの姿勢は、まあダンディズムであり、ユーモア感覚でもある(SF大賞受賞の挨拶ビデオがまさにそうであった)。
 この議論に参戦してみたい気持ちあり、しかし、ぼくみたいなロートルが加わると、雰囲気を乱すかなとも思い、ちょっとここに感想だけ。
 ぼくのSF観とかSFの定義は、書き手としては狭く、読み手としては広い。これは、たぶんオリジナリティを第一に評価するからで、また自分の力量というか、身の程も自覚しているからだと思う。たぶん40年間の読者生活がベースになっているからで、どこかに新趣向がないと面白がれない。SF読者というのはその点いちばん贅沢でわがままな読者と思う。
 そこで瀬名作品を読むと、従来のSF観で評価すると、中心軸がすこと違う感まぬがれず、SFファン側が感じる違和感もわからないではない。(などと八方美人ではいかんなあ)
 具体的には、『八月の博物館』ではメタ小説的趣向の部分がいちばん面白く、かつSF的趣向と感じてしまうのである。これは作者の「期待」とずれるのではなかろうか。
 一方、『ロボット21世紀』では、その関心軸はSFファン(に限らずだろうけど)とほとんどズレがない。
 小松さんの初期のルポルタージュもそうだったけど、作品に反映してくるのは次のステップになるのではないかな?
 ……と、思いつきの感想だけ。瀬名作品も追い続けますから、いずれもう少し整理してまともな意見にまとめます。


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