『マッドサイエンティストの手帳』151
●アーサー・C・クラーク『失われた宇宙の旅2001』伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫)
巨匠が自ら語るもうひとつの「2001年宇宙の旅」
これは今年前半に読んだ本の中でやっぱりいちばん面白い本である。
わが実兄がわざわざ届けてくれた。
自慢じゃないが……じゃなかった……訳あって、おれは早川書房の本は新刊では絶対に買わない。他人から借りるか貰う、図書館で借りるか、立ち読みするか、古本屋で探すか、である。この20年間、それは墨守してきた。(例外かふたつあり、ひとつはウチの「専属料理人」が17年ほど前に早川のミステリの文庫本を買ったことがある。この時は怒鳴りつけた。「ドアホ。わしがどんな気持ちで裁判やっとると思とるんや。500円の文庫でも早川の利益になるんやぞ。そこから「抜け目のなさそうな目つきをした土建屋面のハゲ頭弁護士・五十嵐敬喜に金が支払われるのやぞ。なに考えとるのや」……ちなみに、「専属料理人」を叱ったのは、20何年かのなかで、この一度だけである。他人を怒鳴るなど、あと、今岡清というカスを面罵したことがあるくらいか。50何年で二度。……むろん、その後、早川の本を新刊でわしの稼ぎから買うようなアホなことを、この女性はしていない。……もうひとつの例外は、日本SF大賞の候補になった作品を、選考委員という立場上、読まなければならなくなった時である。古本屋を10軒ほど回ったがなく、近くの図書館にもない。ごく親しい知り合いに聞いたが持ってない。あまり聞き回るのも、なぜその本が必要なのかと質問されたら困る。SF大賞の候補作はマル秘事項であったから。そんな事情があって、早川から出た候補作を買ったことがある。むろん、そのことが作品の評価に影響することは絶対にない。これはSF大賞の銓衡が「利得」とはまったく関係なく行われているかをいいたいから書いたことである。ほんと、たいへんな負担なんですぜ。)
ということで、『失われた宇宙の旅2001』が読みたいといったら、横浜からわが実兄がわざわざ(でもないけど、出張のついでに)届けてくれ、その上、受け渡しの新大阪でビールまでご馳走してくれた。
麗しき兄弟愛である。
しかも、780円の文庫一冊を届けるのになんぼかかっとるのか。
日本経済の底上げを考えると、まあ、これはいいことではないか。
と、前置きが長くなった。
本文は簡潔にしようっと。
これは「2001年宇宙の旅」の別バージョンで、クラークの注釈が書き込まれた「オリジナル版」というべきだろう。
伊藤典夫氏の後記も含めて、これは正編よりも面白かった。
特に日記部分が抜群に面白く(たとえば、チェルシーでカンヅメ(というのかな)になっている時、バーにウィイアム・バロウズがいるからと飲みに行く、など)、創作の状況が生き生きと伝わってくる。枚数(ワード数)の進行なども、創作の秘密を知るのには絶好である。というよりも、ここから『楽園の泉』までの小説の作り方が氷解した思いである。……これは長くなるし、「企業秘密」でもあり省略。
伊藤典夫氏は後記で、『幼年期の終わり』『海底牧場』『火星の砂』の古い「クラーク節」との再会を指摘されている。ぼくは逆で、この「2001」あたりから小説の構成が、短い章の積み重ねに変わっていったと思う。これはゴチック部分を読んで、ほとんど確信に近い。……ただし「クラークは会話を書かない方がいい」はまったく同感で、僕自身、クラークに限らず、会話のない小説が好きなのである。(会話が多いというのは人間関係が複雑なのであって、センス・オブ・ワンダーとは無縁である場合がほとんどなのである。SFに人間など出てこなければいいとさえ思うことがある)
その他、思うところ色々。
伊藤氏が後記で『シャイニング』との比較で論じられているのにも不思議な気がした。キューブリックが映画化したという接点を除けば、クラークとキングはまったく関係ないと思う。というよりも、小松左京と高橋克彦ほど違うのである。……が、これも長くなるから省略。
以上、読後の感想のみ記した。
いちばん嬉しかったのは、319頁の一行。
「わたしは……タバコを売る罪は死刑がいいぐらいに思っている人間だが……」
クラーク、バンザーイ! である。
小松さん、筒井さんは、「吸う人間」であり、売る人間ではないから死刑にはなりません。
……などといいつつ、作者・訳者のために、このページを読んだ方はぜひ新刊で買って下さい。
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