HORI AKIRA JALINET

『マッドサイエンティストの手帳』150

●宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)


翻訳者が神々だった時代

 off

 これは今年前半に読んだ本の中でいちばん刺激的な本である。
 「本の雑誌」は購読していないので、この連載については知らなかった。宮田氏については「波」で翻訳出版について書かれていたコラムくらいしか予備知識がなかったのである。
 懐かしい「翻訳家」のポルトレー、中学から高校時代、ハヤカワのポケミスやハヤカワファンタジーで、確かに「神々」のように感じていた翻訳家の「実像」である。これが揃いも揃って凄まじい。
 田村隆一に関してはその「酒仙」ぶりが色々と紹介されてきたが、別の一面にみられる計算高さなどはそのとおりなんだろうなと思う。田中融二の章も小説的な面白さである。常磐新平に関するゴタゴタも、ふーんなるほどと納得。(小林信彦「60年代日記」も読んどるからね)
 その他、へえーっと驚くエピソード満載。
 なかでも特に驚いたのが、つぎの三つである。
 まず、小林信彦(発表当時は中原弓彦)「虚栄の市」に出てくる「蓮池教授」のモデルの半分(ゴシップ狂の部分)は宇野利泰であったという。へぇー、これは知らなかったなあ。
 二番目には、SFマガジンの「覆面座談会」に関する顛末。しかし、138ページに見られるその後の「門前払い」にまで尾を引いているというのは本当だろうか。このあたりになると知っている範囲に入ってくるのだが、聞いたことがない話だ。
 ただ、同ページに「後に徳間書店vs早川書房で争われた日本SF大賞受賞作、堀晃『太陽風交点』二重出版契約権設定事件も、遠因の一つはそれにあったと思う。」とあるのは間違い。これはあり得ない。
 「覆面座談会」はSFマガジン69年2月号掲載で、ぼくのデビュー作「イカルスの翼」が掲載されたのは70年6月号。編集長は森優氏であった。福島正実氏はSF大会でお見かけしたことがあり、挨拶したのは70年夏の国際SFシンポジウムの時に一度あるだけである。その後、ぼくのSF作家クラブへの入会は76年になってから。福島氏の逝去は76年4月。もめ事となる接点も遠因も皆無である。
 ただし、宮田氏が思われる「遠因」は想像できないではない。本書によれば「勝呂忠の原画所有権」に関するゴタゴタは「太陽風交点」事件と並行していたから、交渉の過程で早川清から事件に関する話を聞かされていたことは間違いない。SF作家クラブの多くのメンバーが早川と距離を置いていた事情があるから、昔の「覆面座談会」に重ねて早川清から堀とSF作家クラブ双方への「悪口」が出たとしても不思議ではない。
 だが、「太陽風交点」事件に関しては、どう考えても「覆面座談会」は遠因にはならない。だいたい、ぼくは一読者として面白がって読んだクチなのである。
 ついでながら、「二重出版契約権設定事件」という表現は適切ではない。訴訟事件の名称(通称)は裁判所が決めるものではなく、事件の内容を表す表札としてなんとなくついてくるものである。公式的には事件番号だけである。この事件の主な争点は、堀と早川の間で最初の単行本出版に関して発生した契約が、出版許諾契約か出版権設定契約かという点。控訴審では、どんな出版でも出版権設定契約であるという習慣が出版界にあるやなしやという点である。「二重に出版権設定契約が結ばれた」事件というのであれば、前の2争点で早川の主張が認められた上での争点であり、この事件では「表札」にはならない。多くの判例集では「『太陽風交点』事件」と記載されている。
 三番目に驚いたのが、勝呂忠の原画の所有権に関するもめ事が「太陽風交点」事件とほぼ同時進行していたことである。こんな事件、まったく知らなかった。早川清が原画の「芸術的価値」をまるで認めないのにもかかわらず所有権だけは主張しつづける件りには鬼気迫るものがある。そうか、三流のハードSFなぞなんの値うちもないのに「出版権」を主張しつづけた「遠因」が読めてくる。……ただし、この事件の、特に控訴審は、早川清の「所有欲」だけではない。控訴を進言した人間がいるからである。このことは「宇宙法廷」ノートに詳述する。……あ、早く再開しなきゃなあ。ともかく、この「風雲録」を読むと、言いたいことは生きているうちに言っておかなければなあうとあせることしきり。
 以上、驚いた点を上げたが、最後にひとつ、どうしてもわからない疑問点を書いておきたい。
 最終章に出てくる、早川清の「大いなる遺産」を隠匿した76億円の申告漏れ事件である。この巨額の申告漏れは、遺産隠による脱税容疑で東京国税局の査察を受けたが、「刑事告発は断念せざるをえなかった」(朝日新聞)と、かなり悪質な遺産隠しであることが指摘されている。特に、わしにはとんと縁がないが、巨額の「無記名金融債」が見つかったのが脱税容疑濃厚といわれたゆえんである。……最終章では、これが、早川清の死後、「一年も経ずして側近である『幹部』が死んでいる。『彼』だけがすべてを把握していたこと……(早川清が)『彼』以外には誰にも財政事情を知らされなかったことに、創立以来苦楽をともにした義弟の専務の桜井光雄が反旗を翻して辞めたとも聞いている。そのキーパーソンが死んだことが、かくも世間を騒がすスキャンダルに発展したと、私は推測した。」……本当だろうか。この時点で、社長は早川浩である。巨額の無記名金融債の存在を、後継者である子息にも知らせず、眷属でもない「幹部」である「彼」にしか知らせないなどということがあるだろうか。福島正実氏に「役員にしたから」といいながらその実、役員にはしていなかった。一族以外はかくも信用しない人物が、義弟(ま、「紙のことしか知らない」といわれた桜井光雄とは血のつながりはないのだが)を辞めさせてまで信頼する、血族でない「幹部」が本当にいたのだろうか。
 はっきりいって、とうてい信じられない話だ。
 これは早川浩をかばうための作り話ではないのか。
 もっともぼくには早川関係の知り合いはいない。唯一の知り合いは、「太陽風交点」事件一審で原告側が昭和57年2月24日に提出した準備書面に「校正担当者の長坂美保(昭和五一年四月一日早川書房入社、同七月一日正社員、昭和五三年二月二〇日退社。)」と記載されている人物だけである。で、その人物に訊いてみた。「ええっ、まさか、そんな人いるとは思えないけど。勤めていたのは二十年以上前だから、見当もつきません。経理といえばH坂さんだったけど、絶対そんな悪いことする人じゃないし」「いや、いい悪いやなくて、金銭に関して親族よりも息子よりも信頼されるかどうかや」「わかりません」
 うーん、「彼」とは誰なんだろう。
 ここまで書いてある以上、架空の死者ではあるまい。
 だが、このままでは、死者に全責任を押しつけたかたちにならないか。税務査察に対する防戦はたぶんその線で行われたのであろう。とすると、ここには「抜け目のなさそうな目つきをした土建屋面のハゲ頭弁護士」の悪知恵が働いているのだろうか、きっとそうだ、いやそうにちがいない、と本書の文法にならえば、「と、私は推測した。」
 うーん、最終章に妙な疑問が残り、この部分だけが瑕瑾である。
 真実が知りたい。欲求不満が残ってしまう、罪な本である。


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