HORI AKIRA JALINET
梅田地下街略図

梅田地下オデッセイ

 ゴローをひとつ前のボックスに両手で押し込み、体を芋虫のようにくねらせて、ロッカーひとつ分を前進し、また両手で子供を前にやる。こうして、おれは地下鉄定期券売場の裏側通路のロッカー内を南に進んだ。
 二十個目のコインロッカーが内側から叩くと開いた。目の前に売店の牛乳冷蔵ボックスが転がっている。おれはその上にゴローを置き、ロッカーから這い出した。
 梅田地下センターの西端だった。
 広い道路は暗く、まともに点灯している螢光灯は少なくなっている。この一帯には老化の気配があるとおれは思った。
 通りの東方をながめた。
 人影はなく、円柱が等間隔に並んでいるだけだ。地下街に流れてきた時、はじめて立ったのがあの支柱の横だった。一年後、こんな姿で同じ場所を通るとは想像もできなかったことだ。
 感慨に浸っている時間はなかった。腕の中でゴローが体をよじる。〈早く行こう〉おれはそう感じた。
 通りを横切り、南側の商店街に入った。階段を数段降り、化粧品と装飾品のコーナーを抜け、ベルトやアクセサリーがやたらに散乱するコーナーを右に曲ると、阪神デパートの西側通路に出た。頭の中に予測した経路とゴローの体の動きと歩調が完全に一致して、もはや行き止りや袋小路に迷い込むような気はまったくなかった。一歩一歩に確信があった。画材店の前から北に進み、散髪屋の前に倒れた縞の円筒をまたぎ、ハンバーガーのコーナーを通過すると、阪神電車の乗り口へ降りる階段があった。
 予想通り、シャッターは開いていた。
 階段は地下鉄ほど荒れてはいない。中央部には塵芥もなく、最近も人が通行している様子だった。構内には人の気配がした。阪神側の食料搬入点が近いようだった。
 コンコースに降りると構内は見渡せた。ここには二つのホームに車輛が残されている。それがすみかに使われているらしい。
 おれはホーム南側の通路を西へ進むつもりだった。念のため、背中に隠した庖丁をコートの上から確かめた。使うことはないはずだ。曾根崎地区とはちがうのだ。――そう思いながら、ホームの南側の通路で、不意に正面に人が現れたとき、やはり体が反射的にすくんだ。
「よう」
 前方から大声がした。一年近く前、ワインとハムに別れて逃走して以来聞く声だった。
「無事だったのか」
 おれも声がうわずった。
 医大助手の青年は変っていなかった。着ているジーンズの上下が古びているだけで、髪型まで変っていなかった。
「ワインは犠牲にしたがね」助手はいい、おれの腕の中に目をやって、眼光が急に鋭くなった。
「……あんたの子か」
「かもしれない。確率は五分の一だ。だが、おれの子供のような気がしてきた」
 おれは異形の子を抱え上げた。気味悪さはまったくなくなっていた。
「不思議に進路について意見が合うようなんだ」
「何のことだ」
 おれは、彼と別れて逃げてからの経過を話した。闘争、女、移住、コート、三番街、滝の裏、膨れ上がった腹、出血……。そして、出発してからの経過を聞いて、彼は顔色を変えた。
「それじゃ、三番街の北端からここまで、四時間できたというのか」
 彼は叫び声に近い口調になった。
「そんなことがあり得るはずがない」
 ――いいか、前にも話したことがあるはずだ。今や地下街は完全な迷宮なんだ。ここへ来るまで、二方向のどちらかを選ばなければならない分岐点を幾つ通ってきた。さっきの話では二十箇所以上じゃないか。例えば、どちらに進んでも同じくらいの分岐点があるとすれば、二十の分岐点を通って着いた場所というのは、2の20乗=1048580 つまり、百万を越える到着点からひとつを選び出したことになる訳だ。
 ――むろん、地下街に百万を越える出口や袋小路はない。もとの位置に戻る分岐もあるはずだし、すぐに行き止まりになる通路もある。しかし、この地下街の迷路は、シャッターの開閉でたちまち様相が変わる。一本線を入れるだけで阿弥陀くじの結果が一転するように、防火シャッターが一枚開閉するだけで、東西まったく逆の地点に着くことがある。
 ――われわれが、どこかにひとつあるかもしれない出口を捜すのをあきらめたのも、そのせいだ。
 ――それを、きみは一度も袋小路にも入らず後戻りもせず、ここまできたというのか。
「……信じられない」
「だが、現実にここまで来た。――そうだ、一度だけ通路がわからなくなったのだが、その時、この子が通路を発見した」
「この子が――」
 医大の青年は目を輝かせた。地下鉄出口の一件を聞いて、その目はさらに見開かれた。
「そうか、この子に迷路を読み取る能力があるのかもしれない」
「まさか。生まれたばかりだ、まだ言葉も知らない」
「だが、今までの話では、一種の感応があったようじゃないか。それは親子だからかもしれない。しかし、体を動かして方向を指示したとなれば……」
「超能力か」
 おれはいった。
「予知能力(プレコグニション)とかいう……」
「いや、極端ないい方をすれば、ラプラスの鬼とでもいえる。古典物理学の決定論で仮定された存在だ。ある時点で世界の状態が与えられると、それ以後の状態はすべて決まってしまう。ラプラスの鬼はそれが計算できる存在だという。……ぼくは逆の解釈をしたことがある。あらゆる試行錯誤に費やすエネルギーをはじめから放棄すれば、行きつく結果は最初から見えてしまうのではないか、と。むろん逆説だ。だが、もし可能性をすべて放棄する能力という超能力があれば、自分の運命はすべて予見できるのじゃないか」
「この子がそうだというのか」
「仮説だよ。……だが、このこの体形は暗示的だ。ひょっとしたら、新しい人類であるかもしれない」
 青年はゴローの顔を覗き込むように観察した。
「幼形成熟(ネオテニー)というやつだ。進化のある過程で、個体発生が一定段階でとまり、そのまま生殖巣が成熟して、生殖する場合がそうだ。そのひとつに“胎児化”というのがある。人が類人猿の胎児に似ているというのが有名だ。類人猿の胎児は、体重に比べて脳が重く、顎の突出が小さくて、体毛が少ない。それに皮膚の色が薄いという。まるで人間だ……」
 おれは黙って腕の中の“巨大な胎児”を見た。これが新人類なのか……奇形なのか……。だが……。おれはいった。
「この子がそうだとして、迷路を読めるのとどう関係あるのだ」
「わからない。だが、もしその子が出口を知っているのなら行ってみたい。いったい、地下道の響きにどんな衝動を感じたのか確かめてみたい」
 男は熱っぽくいった。
 そうだ。おれはまだ旅の途中だったんだ。
「行こう」
 おれはいった。
「頭の中にあるコースは西梅田から南に向って、大阪駅前ビルの方向へ進むことになっている」

 おれたちは一年前のように肩を並べて進んだ。だが、今度は、前のように迷路を怯えながら進むのではなかった。確信を持って分岐が選択できるのだ。
 阪神梅田の西出口を昇り、自動改札口を越え、地下鉄西梅田の北側を西へ抜け、阪神食堂街の手前で南へ曲り、地下へ一層降りて、地下鉄西梅田のコンコースの西側を南下していった。一度の選択ミスもなかった。
「一体あんたのイメージの中では」医大助手は興奮した口調でいった。
「目的地には何が見えるんだ。出口か、地上か」
「それがわからないんだ」
 おれは正直にいった。ただ行ってみたいだけだ。しかも、いっさいの不安はないのだ。
 その時、ふと頭の一角が曇った。鮮明であったはずの何かが翳った。同時に、腕の中でゴローが体を硬直させた。
 おれは立ち止まった。
「どうした」
 耳もとで青年の声が響いた。だが、答えようがないのだ。
 また、あの音がした。西梅田の長いコンコースの彼方から、低く重いうなりが地下道に充満した。
「何か、動いているぞ」
 男が叫んだ。おれは前方を注視した。確かに、何かが動く気配があった。
 大阪駅前ビルの地下につづく通路の入口が前方にあった。その一角が異様に動いていた。通路いっぱいに、おびただしい鼠の群れが駅前ビルの通路から走り出ていたのだ。

梅田地下街略図

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