HORI AKIRA JALINET
梅田地下街略図

梅田地下オデッセイ

 おれは信じ難い思いで、暗い褐色の奔流を見つめた。通路の三十メートルほど前に、突然横合いから鼠の大群が走り出してきたからだ。鼠の流れ出てくるビルは、おれの記憶の中では、梅田地下街の最も新しく清潔な一帯だった。
 鼠の群れは通路の出口で拡がり、二方向に分かれた。コンコースに渦まき、一方は堂島地下センター側へ走り、一方は北へ、おれたちのいる北側へ動き出している。
「ここへ登れ」
 男が叫んだ。
 彼は自動改札口の上に乗り、おれの方に両手を差し出していた。おれは硬直したゴローを渡した。足もとにコツンコツンと何かが当った。早くも群れの先頭が足もとを走り抜けている。おれは、男のいる隣りの切符回収機の上に飛び乗った。
 下を見る。十数匹が一瞬後に数百匹になって通路を覆った。耳障りな鳴き声が数千数万と重なって、地下道に充満した。
 どこにこれだけの数の鼠がいたのか。どこへ逃げようとしているのか。なぜ逃げるのか……。洪水のようにあふれる足もとの大群を見ながら、おれはなぜか一年前に地下に閉じ込められた時のことを思い出した。あの時、おれはこの鼠のように逃げまどったのだろうか。この鼠たちも迷路に閉じ込められてしまうのだろうか……。
 うなり声が聞えた。
 横の改札口の上にいる青年の腕でゴローがうなっている。おれは隣りに手をのばして、そいつを受け取った。
 おれの両腕の中で何度か身をゆすり、体を安定させ、ゴローはまたうなり声をあげた。怯えているとは思えない。鼠とは無関係なものにうなり声を発しているようだった。
 その直後、思いもよらぬことが起こった。
 金属の擦れ合う音が地下道に響きわたり、鼠たちの流れの向きが急速に変りはじめたのだ。足もとで鼠は方向を反転した。そして、まるで悪夢が終るように、鼠の大群はまたひとつの流れとなって、西の方へ急速に動き出した。
(西の方……)
 おれは鼠のまばらになった通路に飛び降り、それらが走り去った方を見た。
 おれはこの一年間で最も信じられぬものをそこで見た。桜橋西側の地下出口の防火戸が開き、牢のような太い鉄柵の扉が、左右に開き切って、そこには地上への出口が開かれていたのだった。
 おれは男の方を見て、彼の意外な顔つきを見てから、もう一度見た。出口は開いていた。なぜだ、なぜこんなに簡単に出口が出現するのだ。不思議なことにおれはそう叫びたかった。

 耳なりがした。またあのうなりか。だが、今度は確実に雑音(ノイズ)が聞えていた。そして声がした。
『逃げて下さい。危険が迫っています』
 地下鉄の案内放送用のスピーカーだろう。そこから合成したような音声が響いた。
「誰だ、お前は」
 青年がどこへともなく叫んだ。
『この地下街を司る者です。地下街そのものと考えてくださっても結構です』
「チカコンだな」
『……それはあなた方が付けた名前ですが、その名が象徴するものすべてを含む存在と考えて下さい。私は地下街そのものです』
 声は明らかに女の口調だった。
 鼠の群れはほとんど姿を消している。すべて地上に逃げ出したのだ。
『逃げて下さい。出口はそのために開けたのです』
「なぜだ。なぜ急にこの出口が開くのだ」
 おれは天井の方へ向って声を出した。どこかに集音装置があるのだろう。声は返ってきた。
『事故が生じたのです。駅前第二ビルの地下で、地下水が噴き出したのです。やがてここまで水が噴出してくるかもしれません。早く逃げて下さい』
 地下水の噴出。――それはあり得ることだった。駅前ビルの建設時にも地下水の噴出事故があった。この一帯は埋田(うめだ)という呼称が残っている通り、淀川の低湿地を埋め立てたものだ。特に、このビルの下は梅田砂礫層と呼ばれる地下水脈が横たわっているという。地下数階の壁を破って、地下水が噴き上げてくることは考えられないではない。さっきの鼠の暴走(スタンピート)を見ると、確実に事故が起こりかけていると思えた。
 だが、なぜおれたちを助けるのか……。
『お願いです。早く逃げて』
 声は信じられないことだが、ヒステリックに響いた。
『その子を助けて下さい。それは私の子供です』
 予想外の声に、おれはむしろ動けなかった。医大助手の青年と顔を見合わせたまま、しばらく口がきけなかった。
「……聞いたか」
「何のことだ」
 おれたちはつぶやいた。それに答えるかのように声は響いた。
『その子は今、地上が最も必要としている存在です。あらゆる可能性を棄てて唯一の未来を見抜く能力を持つ存在なのです。地上の世界にはそれが今、最も必要なのです。そのために、私がその子を作ったのです』
「まさか……」
 青年はうめいた。顔が蒼ざめていた。
「この子にその能力があることはぼくも信じる。だが、この子は地上が必要としたのではない。われわれ地下に残された人間が必要としたはずだ」
 おれには彼の言葉の意味を理解しかねた。
「どういうことなんだ……」
「われわれが地下に残されたのは何かの実験ではないかといったことがあっただろう。あの時点では、ぼくはそう信じていた。だが、阪神の地下で生活をはじめてから、考えは変った。過密化した人間の行動を実験材料にするなら、何も小人数だけを残す必要はなかったからだ。……結局、地下街環境でしか生きられない人間に対するチカコンの挑戦だと、ぼくは受けとめた。だが、いつか地下から、出口を発見する能力を持つ者が生まれるだろう。そう信じていた」
「この子がそうだというのか」
「そうだ。ぼくはもともと地下人種を軽侮していた人間だ。だが、今はちがう。一年地下に閉じ込められた人間だ。だから、この子を地上に渡す訳にはいかない」
「この子が私の子といったのは、どういうことなんだ」
 おれは男に訊ねた。
「地下を封鎖したのは、ラプラスの鬼を誕生させるために必要だったということだろう。つまり、地下街は、地上の社会が必要としているひとりの超能力者を生むための子宮だったことになる」
 男は吐きすてるようにいった。
『その通りです。地上は待っているのです。早く、出口へ急いで下さい』
 声は地下道に響きわたった。
「だまされるな」
 青年はおれに叫んだ。
「おれたちは何のために地下街に生きのびてきたんだ。おれたちはやっとおれたちを地下に閉じ込めた存在を乗り越えて、自分たちの力で突破口を開こうとしているのだ。信じろ。今開いた出口を出てはいけない。イメージに描いた通りの経路を進むんだ」
『もう、その通路は通行不能です。噴流が地下二階まできています。左側へ進めば助かりません。早く出口へ急ぎなさい』
「駅前ビルの通路を進もう。危険でもわれわれの経路を進むんだ。失敗してもいい。なぜおれたち自身の可能性を棄てる必要がある。試行錯誤こそ人間の特権なんだ」

 おれは立ちすくんだままだった。
 右側に桜橋の出口が開いており、左側に駅前第一ビルの入口が口を開けていた。
 おれが結局生活できなかった地上の社会と、地下に蠢いている無力な人間たちが、奇妙に頭の中で重なった。おれは腕の中に小さな肉塊を抱えたまま、自分の置かれた奇妙な位置に戸惑った。
 おれは駄目な男だった。何ひとつ自分で決断を下すことが出来なかった。だが今、おれはひとつの通路を選ばねばならなかった。
「よし」
 おれは断言した。
「おれが決める。この子が地下街という子宮から生れたのか、おれの子なのかは知らない。ただ、この子の意志を感じられるのはおれだけだ。だから、おれがこの子に訊く。おれは、この子の決断に従って進路を決める」
 男は何も言わず、地下街は沈黙したままだった。
 おれは両手でその子を抱えて、二つの通路の中間に立った。
(さあ、行こう)
 おれはゴローに呼びかけた。
 腕の中で確実に体が動いた。おれはその方向に歩き出した。

梅田地下街略図

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