梅田地下街略図 |
3梅田地下街略図三番街地下一層〈よそおいのまち〉は予想以上に荒れ果てていた。
照明は地下二階よりも暗い。通路が細く、入り組んでいる上、破損の状況もひどかった。毀された螢光灯と寿命の尽きたランプが多く場所によっては暗闇に近いところもある。商品の散乱ぶりも、以前一度通った時に想像した荒れ方以上だった。まともに並べられた商品は皆無といってよかった。
おれには差し当り漁らねばならぬものはなかった。一刻も早く迷路を抜けたいだけだった。通路にはハンドバッグや靴がいたるところに散乱していて、何度も転びかけた。片手で倒れかけたマネキンを起こしたり、棚を持ち上げたりして進んだ。腕がしびれ。何度か腕の中の塊を持ち替えなければならなかったが、声をあげることはなかった。何かで脚を打ちつけて、おれの方がたびたびうめき声をあげた。
ふと気がつくと、目の前に人影が立ちはだかっていた。通路をふさぐような大男のシルエットが前にあった。とっさのことで判断に迷った。右腕に子供を抱えていた状態だったので、左手を背中の庖丁に回そうとしたのだが、うまく把めなかった。
「なんだ、あんたか」
庖丁に手が届く前に、前方から声があった。おれは目を凝らした。見覚えのある男だった。
〈トレビの広場〉に住みついたグループのリーダー格の男だ。ガードマンだったとか聞いた。食料品を貰いに行く時だけ姿を見たことがあるが、決してグループに入れとはいわなかった。屈強な印象だが、決して暴力的なふるまいはしない男だった。彼は毛皮のコートを数枚、肩に担いでいた。
「冬支度さ」男はいった。「まだこんないいものがあったぜ」
そういえば、もうすぐ冬が来る。二度目の冬だ。地下街にも季節はある。冷暖房が切れる時間、気温は地上の温度に近づいていくし、水温は季節によって確実に変化する。それに、地下設備が部分的に傷みはじめている傾向もあるのだ。男はそうした季節を予感して、早くも動き出している。地下に残された人間には珍しい生命力が感じられた。
「あんたも何か捜しているのか」男はおれと腕の中の子供を交互に見ていった。
「いや、三番街を出て行くことにしたんだ」
男がどんな表情をしたのかは見えなかった。しばらく沈黙があって、男はいった。
「追い出されたのか」
「いや」おれは男を見上げた。「急に出て行きたくなった。なぜか自分でもわからないんだ」
「珍しいことだな。女が死んだからか」
「留っている理由はなくなった。だが、南へ行けば出られそうな気になってきたからなんだ」おれは断言した。「例の音が聞えたとたんに、急にそんな気がしてきた。……聞こえなかったか」
「例の音……地下道の共鳴か」男は怪訝そうに訊き返した。「時々聞えることはある。季節の変り目は多いかもしれないな。水道管の中に気泡が混ったり、気温が変化しやすいからな。あの音に恐がる女もいる。地下から出ようとあがいて死んだ連中の亡霊が合唱しているように聞えるそうだ。何の意味もないんだが」
「おれもそう思う。ただ、こいつが変な反応をする」おれは腕の中のものを、よく見えるように、照明が当るまで持ち上げた。「あの音が聞えたとたんに急に武者震いを始めた」
「それがあんたの子か……」男は異形の子を気味悪がっている様子はなかった。「名前はつけたのか」
「ゴローだ」おれはとっさの思いつきを口にした。「おれの子かどうかは分らない。父親の候補は五人いるからな」
「そうか、南へ行きたがっているのは、その子が本当の父親に会いたがっているからかもしれないな」
男は冗談ともつかぬ口調でいった。同情も心配もしてくれないところが、おれにはありがたかった。近くの通路の状態について情報交換し、食料のことを話し、狭い通路ですれ違って、その男とは別れた。男は三番街の地下にどうにか確立できた“生態系”を何とか維持して扉の開く時を待とうとしているようだった。それはひとつの方法には違いない。たったひとつの出口を求めて発作的に移動する方法は、ほとんど成功の見込みがない。経験的に誰もが知っていることだった。だが、誰にもそれを止める資格はない。それもまた経験的に学ばざるを得なかった不文律だ。
おれは靴屋のショウウィンドウの脇を抜けたとろで、再び階段を下りた。正面に蕎麦屋と寿司屋が並んでいる。三番街の南端だ。通路の西端に従業員通路と標された扉がある。必ずあのドアは開く、とおれは思った。ドアは開いた。地下荷捌場へ抜ける通路は密閉されている。おれは階段を登り、地下一階の従業員通路の扉を内側から開けた。
広い通路の向うに銀行の看板が見えた。三番街は抜けた。最初の目的地、地下鉄梅田駅に通じる出口に到着したのだ。
「ゴロー、おれの勘は冴えているぞ」
おれはつぶやいた。左腕の中から、低いうなり声が返ってきた。
今でこそ地画別に“生態系”が出来上がりつつある。が、現状に落ち着くまでには、さまざまな試行錯誤と闘争を経なければならなかった。
医大助手の青年が立てた仮説は、結果としては正しかった。防火シャッターの開閉によって、閉ざされた地下空間にさまざまな迷路が作られる。――それは長い混乱の後に訪れた世界だった。
防火シャッターの密室から出たおれたちが最初に行なったのは、当然、地上への出口の模索だった。はじめは一団となって、やがては何組かのグループになって、地上への非常出口、非常階段をすべて当っていった。調査の範囲を拡げれば拡げるほど、地下街の閉鎖状態は完璧なものだとわかりはじめた。手で開閉できるはずの非常出口の扉は、確かに開いた。が、地上の扉はどう扱っても内側からは開かなかった。ビルの地下にあるエレベーターも同様だった。ゴンドラは吊り上げられ、地階へは降りてこなかった。
単に出入口の扉を管理システムが閉じただけではなく、地上側から大掛りな封鎖作業が進められている気配があった。
その作業が想像以上に大規模であることがわかったのは、地下ターミナルの様相を見た時だった。地下鉄と阪神電車の駅への通路が開けられたのは数日後だったが、その時には電車はむろん一本も動いておらず、線路沿いに地下を進んだ者は、すべて、二百メートルも行かないうちに、トンネルが土嚢で隙なく埋められているのを発見した。地下鉄御堂筋線、谷町線、四ツ橋線、阪神電鉄、すべての地下路線が完全に工事済みだった。
外部の大量の作業員と機械の動員がなければ出来ぬ作業だった。それに、梅田を経由する電車がすべて運転不能となると、地上の蒙る被害は想像もつかないものになる。
「地下街ジャックだ」
誰からともなく、そんな声が出た。
電話は一切不通。テレビも受像できない。ラジオには凄まじい妨害電波が入っていた。
「地下街に閉じ込めた人間の命と引き替えに、自動開閉が不可能な出入口をすべて地上から封鎖させたにちがいない」
それは唯一、地下側から見た状況を説明し得る意見だった。
事実、地下の人間をチカコンを使って殺すことは可能だった。たいていの人は、直接間接に、防火シャッターを破ろうと企てた人間が失敗したことを知っている。――あるビルの保安員は電気ドリルを手に入れ、防火戸を破ろうとした。が、直ちにドリルへの送電はストップされ、彼の周囲のシャッターがすべて降りた。内部の照明は消され、十日以上、そのまま放置された。周囲のシャッターが開いた時、内部の男は餓死していた。
似たような死体は、出口付近に、いたるところで発見された。感電死した男、窒息死した男、エレベーターの下で潰された死体、防火シャッターで分断された死体……。
「すべて地上へテレビ中継も可能だ」
地下街のいたるところで、工業用テレビカメラが不気味に首を振っていた。
「この程度はまだ小手調べだろう。いざとなれば送電を停止して、水道バルブをすべて開放すれば、全員殺せるはずだ」
だが、地下街ジャックだとして、誰が何のために乗っ取ったのか、何が要求されているのか――。この疑問には誰も答えることができなかった。疑問を考える前に、差し当り対策を立てなければならぬ問題が、あちこちで発生しはじめていたのだ。
地下街に残された人間が何人いたのかは、今でもわからない。三百人という説があり、千人を越えるという意見もあった。最初のシャッターの開閉で閉じ込められたのは、梅田地下センターだけの現象ではなかった。三番街でも堂島でもあった。同じ地下センターのすぐ隣りのブロックでもあった。合流したグループもあるし、またどこかで孤立している人たちがいるかもしれない。さまざまな流言飛語も含めて考えた結果、五百人前後というのが定説になった。
最初の混乱時に人数を数える余裕のある者はいなかったし、混乱がある程度終息した時には、互いに顔を合わせることが困難な状態になったからだ。
おれ自身、最初の混乱状態を冷静に見ていた人間ではない。だが、混乱から逃げようとはしていた。敵もつくらぬかわり、味方もなかった。その結果、どのグループにも入らずに生活することになったのだが。
混乱は――要するに食料の確保をめぐる争いから始まった。
地下の閉塞状態が想像もつかぬほど強固であることが解明されていくにつれて、誰もが考えたのは、いつまで、どう過ごさなければならないのかだった。
地上への道が塞がれていることを除けば、地下街は悪い環境ではない。おれ自身、衣食さえ保証されるのなら地下街に住みつきたいと考えたことがあるほどだ。問題は“食”だった。浮浪者のように、残飯を漁る生活だけはいやだった。それだけがいやで、役にも立たぬ百科事典を売ろうと決意した、と今になって考えられぬことはない。――そして、誰もがおれ以上に食物に切迫したように思えた。
閉鎖が十日以上つづくうちに、脱出を試みて死者が続出する一方で、とりあえず待機しようとする人たちは、さまざまな迷路をたどって、三カ所に群がることになった。それは食料品の豊富な場所――阪神デパートの地下食料品売場、同じく阪急デパート地下売場、それに曾根崎警察署東側の地下名店街の三地区だった。
ここでどんな騒ぎが起こったのか、おれは見ていない。後に聞いた話では、生鮮食品が尽きた頃から殺気立った雰囲気が支配的になり、各グループで食料の自主管理を始めたようだった。
これが結果として地下街を三分するグループの母体となったのだった。