HORI AKIRA JALINET
梅田地下街略図

梅田地下オデッセイ

 三ヵ月以上居ついていた場所を離れるのに、何の感慨も湧いてこなかった。ねぐら以上の意味を持っていたはずなのだが、今は、おびただしい出血の跡と、大量の血を吸い取った衣類と、それにくるまれた女の死体があるだけだ。死体はやがて鼠が始末してくれるだろう。出口付近によく転がっている白骨同様に、やがては見分けがつかなくなってしまうにきまっていた。
 重要なのは死体の始末ではなく、ここから出て行くための身支度だった。
 衣類は何とでもなる。地下街に衣料はあり余っている。どんな迷路に入り込んでも不自由はしないだろう。それだけは確信があった。
 食料はやや不安だ。三番街の北端あたりにいる限り、周期的に運ばれてくる食品の分配を受けることはできるのだが、この地区を離れて、飢え死にするまでに次の食料搬入地区に着けるかどうか、一抹の不安は残るのだ。どんな道が開いているかで、距離はまったく異なってしまうからだ。堂島地下センターの南端まで、ひょっとしたら三十分で着けるかもしれないし、道を選び違えれば三ヵ月かけても着けないだろう。――だが、飲み水に不自由はしないし、いまや頑なまでに信じられている風説によれば、閉ざされた扉を破ろうとしない限り餓死することはない、というのだ。
 問題は武器だ。経路によっては、それが必要な場合もありそうだ。おれの得物といえば刃渡り二十センチの刺身庖丁一本だけだ。半年ほど前、泉の広場付近の割烹で板前をしていたという男から奪ったものだが、地下街では最もありふれた凶器といえた。ましてそいつを振り回すのは得意ではなかった。おれはそれを厚いタオルで巻き、腰ベルトの背中の方に差し込んだ。
 スヌーピーの図柄の布製ショルダーバッグに手元の食料を詰め込むと、出発準備は終りだった。あとひとつ、やっかいな荷物がある。まだ名前もつけていない嬰児だ。おれは広場の南側にある洋品店へ入って、そいつにふさわしい衣類を探した。タオルはほとんど持ち去られている。バスタオルより厚い、トイレ用の敷物を一枚見つけた。これで十分だろう。血と汚物で汚れた布を棄て、ごわついた敷物で包みなおすと、異様に大きな頭だけが出た。ベムのぬいぐるみでも持つようにおれはそいつを左腕に抱えた。どんなに乱暴に扱っても、その子は泣き声を上げたことがなかった。
 おれは南へ向って出発した。
 阪急プラザと阪急三番街をつなぐのは、地下二階にある東西二本の通路だけだ。そして通路が二本しかない時は、たいてい両方とも扉は開かれているはずだ。おれはそれを経験的に知っている。そして、二本の通路の向うに開かれた道は、同じ地区内で交ることがほとんどないことも知っていた。
 目の前にある東側の通路は開いている。右手のてんぷら屋と郷土料理の店の間を抜けた向うに西側の通路がある。最初の選択だ。おれは自然に東側通路を選んだ。左腕の中で出発をせかすように子供が身動きしたせいかもしれない。
 通路内は暗い。スニーカーと床材のきしむ音が奇妙に響く。壁の中では、電気室の変圧器が低いうなりを上げている。二十メートルほどの通路を抜けたところが阪急三番街の北側に当る。ここでまた、通路は三方向に分かれていた。正面のシャッターが降され、左右の通路だけが開かれている。右側へ行けば〈トレビの広場〉、左はプチ・シャンゼリゼへつながる通路だった。
 阪急三番街には、“川のあるまち”と書かれた標識がいたるところにつけられている。地下二階の中央に浅い人工の川が設けられていて、水が循環していた。今はポンプが停止したままで、北側の人工滝同様、濁った水がよどんでいるだけだ。川床にはトレビの噴水をまねて通行人が投げ込んだ硬貨が一面に沈んでいるはずだった。――この地下街が作られて間もない冬、深夜、川ざらえをした浮浪者がいたことをおれは聞かされた。公衆便所に潜んで夜を待ち、膝まで水に浸って徹夜で硬貨を拾い集めたのだ。明け方、あまりの寒さにシャッターの開くのを待ちつづけ、当然、朝になって逮捕された。集まった硬貨はホテル一泊の費用にもならぬ額だった。「おれたちの生活の先どりだよ」その話を教えてくれた男は苦笑した。
 その話をおれは人工川の北側〈トレビのへ広場〉で聞いたのだった。そこには現在五十人ほどが生活しているはずだ。この地区の食料搬入地点だからだ。そこへおれは周期的に食料を貰いに行ったのだった。
〈トレビの広場〉の中央には太い鋼管で支えられた螺旋階段がある。地下の喫茶店からは降りてくる女性のスカートの内部が覗けることで有名だった。今は、地上へ伸びた神樹の周囲に人が集まるように、三番街に住む人間が、自然に階段の支柱を中心に生活していた。おれはそこから食料の分配を受けながらも、集団とはつかず離れずの距離を保ってきた。広場には、薄暗い照明の中で、階段の上から吊り降ろされてくる食料を待って、五十人あまりが寝そべっている。支柱をよじ登って地上へ出ようとする人間はもういないはずだ。パーラーの周囲に立ててあったコンクリート製の女神像が何体も床に転がっていて、住人もその姿とあまり変らない印象だった。
 おれは〈トレビの広場〉と反対の方向にコースをとった。
 正面は、プチ・シャンゼリゼの北端〈星の広場〉につき当るはずだ。その手前で、その通りへ出るのを拒絶するかのように、腕の中で不吉なうなり声が生じた。
 おれは立ちどまった。シャンゼリゼと名付けられた、いかにも上品に作られたその通りが、おれはもともと好きではなかった。それ以上に、あまり踏み込みたくない嫌な記憶があった。だが、生まれて一週間の嬰児が、なぜその方向を嫌うのか。
(まさか……)おれは嫌な想像をした。(この子は潜在意識に母親の記憶を引き継いでいるのだろうか)
〈星の広場〉へ出る手前に階段があった。おれはためらわずに階段を登った。地下一階のフロアまで登って、念のため一階を覗いてみた。むろん、階上のすべての扉は完璧に閉ざされていた。
 地下一階の衣料店街〈よそおいのまち〉は売場ごとのシャッターで、おそろしく細かい迷路が作られている。進路の選び方次第でどれだけ時間をくうか予想できない一角に入る訳だ。おれは基本的なコースを、地下鉄梅田駅の方向に定めていた。
“南”へ通じる経路は二通りある。正確には、国鉄ガードの南側へつづく地下道は、プチ・シャンゼリゼから梅田地下センターへ抜ける東側と、地下鉄御堂筋線、梅田駅の構内を抜ける西側通路だ。基本的に西側のコースを目指したのは、腕の中の子の不機嫌なうなり声のせいだった。西側を選ぶかぎり、この迷路を抜けなければならないのだ。
 通路が多岐になるほど失敗の可能性は大きくなる。梅田駅通路までドア一枚のところまで達しても、そこが閉ざされていれば再びもとの位置から出直さなければならないかもしれない。いや、出発直後から、すでに誤った分岐に入り込んでいる可能性もある。
 さらに、あの“開閉周期”が巡ってくれば迷路の様相はたちまち一変してしまうのだ。その恐ろしさを、おれはあの異変の直後から知っている。

 地下街に取り残された人間が何人いたのかおれは知らない。誰も知らないだろう。今、何人生きているのかは見当もつかない。大量に死者が出たし、新しい生命がどこか他にも生れているかもしれない。
 最初、梅田地下センターの中央で逃げ遅れたのは、そう多い人数ではない。百人もいなかったように思う。だが、それが本当に逃げ遅れた人数なのか、意図的に残された人数なのか、今でもわからない。
 静まりかえった地下コンコースに十数人が立ちつくしていた。サラリーマンや学生、それに地下ショッピング・センターの店員たちが主だった。
 明るい照明はいつもと変らず、空調にも異常はない。ただ、周囲の防火扉とシャッターがすべて閉ざされているのだった。
「逃げ遅れたな……」中年のサラリーマンが力なく呟いた。
 誰も答えなかった。手分けして全部の扉を当たり、どれひとつ開かないことを確認したばかりなのだ。
「故障が直るまで待つしか仕様がないね」大学生らしい男がいった。「前にもエレベーターの故障で三時間ゴンドラに閉じ込められたことがある。あの時は電気は消えるし、そら怖しかったけど……」
 エレベーターの故障とは違うぞ。誰もがそう思っていた。事故が起ったことは何千人が知っているんだ、助けが来ないのはおかしいじゃないか。他の連中は逃げてしまったまま、なぜ戻って来ない。大切な商品だって置きっぱなしなんだぞ。警官も見ていたはずだ。それに……。
(それに)おれは思わずその言葉を口に出しかけた。(地下街には自動管理システムがあるじゃないか)
 だが、同じ思いつきをおれより先にいったのは別の男だった。
「チカコンが故障したのかもしれない」
 眼光の鋭い、ジーンズ姿の青年がいった。
「何ですねん、それは」中年のサラリーマンが訊ねた。
「梅田の地下街全域を制御しているコンピュータ・システムですよ。知りませんか」青年は周囲を見廻した。
「何かパンフレットを見たことがありますけれど」女店員が答えただけだった。
「この梅田の地下街は自動的な管制システムで動かされているんですよ」青年はしゃべり始めた。
「半年前に完成した時、解説記事を読んだだけなんですが……」
 梅田地下街は、地下鉄梅田駅を中心に、国鉄大阪駅との連絡通路、阪神・阪急の両百貨店の出入口、曾根崎警察署までの地下道と拡がり始めた。梅田地下センターに商店街と食堂街が出現し、北は梅田コマ劇場、東は富国生命ビル、南は三番街まで拡大された。地下鉄四ツ橋線が開通して西梅田駅が出来ると同時に、地下街は急速に西南に進み、堂島地下センターが南へ一直線にのびた。高度成長期に入り、地下鉄は更に巨大化した。阪急梅田ターミナルが国鉄ガードの北側に移転するのに伴って、ターミナルの地下には川のある地下都市・阪急三番街が一挙に出現し、地下鉄梅田駅と連結されたが、後年、東側にプチ・シャンゼリゼが作られて、梅田地下センターともつながった。梅田地下センターは東へも伸び、東端地下には噴水のある〈泉の広場〉が作られた。地下鉄谷町線が乗り入れられて東梅田駅が出現し、地下街は南へ伸びた。大阪駅前の再開発が始まり、桜橋から梅田新道の方向へ、巨大な三つの近代ビルの建造が開始された。大阪駅前第一ビル、第二ビル、第三ビルだ。経済は低成長期に入って、工事計画を変更しつつも、駅前第三ビルはどうにか完成し、御堂筋に沿って地下道は梅田地下センターと結ばれ、梅田地下街の空間的な拡大は終息した。
 同時にスタートしたのが、地下街の自動管理システムの開発だった。ここまで巨大化した地下空間は、孤立した地下街とビルの地下フロアとターミナルが通路で連結されたものではなく、一つの地下都市と考えなければならない。地下鉄からはき出される乗客は連続した流れとして、通路を流れ、買物し、食べ、他の電車に乗り替え、あるいは地上への出口へ進むからだ。――こうした考え方の最も顕著なのが防災対策だった。火災感知器からスプリンクラーを始めとする消火機器の配備、消防署への通報システム、通行人の誘導システム等は、個別にそれぞれ拡充しつつあった。通行量が増えるにしたがって、防火シャッターや誘導経路の設定は、ターミナル内や電車の発着状態も含めて検討する必要が生じてきた。
 このようなシステムを梅田地下空間全域に適用し、機能を防災から防犯、防疫、さらに地下街管理の経済性まで拡大しようというのが、梅田地下街自動管理システムの開発意図だった。
 完成した「梅田地下街管理システム」の装備と機能の概略は次のようなものだった。

  ◇感知機器
   火災感知機器(煙・熱)
   地震感知(振動)
   水害感知(水・水位・流速・地下水)
   防犯用機器(赤外線・振動・音・熱・他)
   交通量計測(工業用テレビ・赤外線・感圧装置・他)
   空調(温湿度・成分・塵)
   騒音計測
   エネルギー計測(電力・ガス・重油・他)
   その他
  ◇防災機器
   消火装置(各種消火器・スプリンクラー・消火栓)
   防災装置(防火扉・防火シャッター・スモークタワー・排水装置・他)
   警報装置(ベル・スピーカー・誘導標識・他)
  ◇機能
   地下環境の管理状態計測と制御
   異常警告
   災害、犯罪の検知・通報・避難誘導・防災活動
   その他

 ――この〈機能〉に関しては従来の地下設備とも関連しており、地下全体で使用している電力や水量は絶えず計測され、部分的には制御されているといわれているし、各種の感知装置も単一目的にのみ使用されるのではなく、多目的に使用されている。したがって〈機能〉は、小は泥棒の発見通報から大は災害時の防災活動交通量の制御まで、数えきれぬほど多岐にわたるのだった。
 地下街全域に配置されたおびただしい計測機器の情報を数えきれぬほどの目的別に判断し、無数の制御機器を動かすには、大容量のコンピュータ・システムに頼らざるを得なかった。同時に、三本の地下鉄、二本の私鉄と国鉄、二つのデパートを含む巨大ビルの地下フロアの設備とも連動する必要があった。このため梅田地下街管理システムを運営する公社が設立され、そこに導入された巨大コンピュータ・システムが「梅田地下コントロール・コンピュータ・システム」(略称TIKACON)だった。
 機能を説明する話として、こんな話がある。
 終電間際に酔っぱらいが商店のショウウィンドウを激しく叩いた。防犯装置のうち、シャッターの振動が内側で検出された。コンコースの一角にあるTVカメラがその方向を向いたのだが、柱の陰で死角になっている。が、交通量計測用の感圧素子がちょうど床材の下にあって、“千鳥足”を検出し、至近距離の空気成分分析装置でアルコールが検出され、感熱装置が平均以上の体温を計測したために、盗人ではなく酔っぱらいと判断され、時刻から判断して派出所に通報するよりも終電に間に合わせる方が重要と結論を出して、チカコンは頭上のスプリンクラーを瞬間的に開放して酔っぱらいの頭上に水をかぶせ、スピーカーから『急ギナサイ』と伝えたという。
 むろん作り話だが、実際には、大きなガス漏れ事故を防いだり、酸欠空気の発生を警告したりの成果が報告されていた。

(あの設計部長が作った織物工場の制御システムとはスケールが違うなあ)おれは青年の説明を聞きながら、素直に感心した。
「そんなら何でっか、そのコンピューター、狂うてシャッターを降ろしてしもたと、そういう訳でっか」中年のサラリーマンが目を丸くしていった。「それやったら非常口を手で開けたらよろしい」
「そのはずなんですが」青年は周囲をぐるりと見廻していった。「ごらんなさい。われわれは見事に非常出口のない区画に追い込まれている」
 確かに、階段脇などに設けられた非常用の出口は、この区画には見当らなかった。
「あなたは最初、逃げ遅れたといわれましたが」青年は中年男に向っていった。「ぼくは別の解釈をしていたんです。シャッターの開閉がある規則を持っていたように思われませんか」
「おたく、コンピューターの技師さんでっか」
「いえ、医大の助手です」ジーンズの青年は目を大きく開いていった。いつの間にか、彼を中心に輪ができていた。「ぼくの行動を思い出すまましゃべりますが……ぼくは阪神沿線の医大に勤務している。家は地下鉄西田辺だから、梅田で阪神から地下鉄に乗り替えることになる。昨夜は当直だったので、今、帰宅の途中だった。いつもならすぐ乗り替えるのだが、今日は娘の誕生日なので、プレゼントを買うために地下センターまで出てきた訳だ。そしたら、シャッターが閉り始めた。ともかく帰りたい一心で、地下鉄の方向へ走った訳だ。そして例の滅茶苦茶なシャッターと防火扉の開閉に巻き込まれた。ともかく通路の開いている方向へ走った。逃げ遅れたつもりはないんだ。それに地下鉄ののりばだけを目指した。一旦地上へ逃げようとは考えつかなかった」
 周囲がすこしざわついた。
「……店の方が気になって……」「ロッカーの荷物をとりに……」「子供を待たせていたのが……」
(おれは……)おれは別に逃げようとはしなかった。(地下街から出たいとは思わなかったからなあ)
「追い込まれたといったのはそのことなんです」医大助手は言葉を強めた。「チカコンは狂っていない。規則正しく通路を開閉して、われわれだけを残したような気がする。箱の中に豆粒をいっぱい入れる。それに仕切を立てて開閉する。残った分を外に出して、また仕切りを立て直す。これをくり返したようなものだ。逃げ遅れた人間の方が、すんなり地上へ出られたのかもしれない」
 青年の言葉は説得力を持っていた。管理システムが狂ったのなら、防火シャッターだけの混乱で済むはずはないからだ。照明も空調も正常だった。静かで、いつもより気分がいいほどだ。――だが、なぜ……。
 防火扉とシャッターで囲まれた空間に閉じ込められて、もう五時間以上経過している。また沈黙が戻ってきた。
 その時、どこかでモーターの回り出す音がした。皆は一様に顔を見合せた。
 防火シャッターが上がり始めた。同時に二枚のシャッターが動いていた。閉じ込められていた区画の東西両側の通路が開き始めているのだった。
 二つの通路は開ききった。一方は阪神・地下鉄のターミナルにつづき、他方は富国生命ビルの方向へ向う通路だ。どちらの通路にも人影はなく、通路両側のシャッターはすべて閉ざされていた。
 地下鉄のどこかから声が聞えるような気がした。
「さあ、どちらへ進むか選びなさい」と。

梅田地下街略図

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