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  眉村卓『新・異世界分岐点』(出版芸術社)

 眉村卓さんの最新作3篇と前の『異世界分岐点』から3篇が収録された「新版」。
 注目すべきは「一日3枚以上」以降に書かれた自伝的中編「エイやん」で、この作品にしぼって感想を書かせていただく。
 しかもその「舞台設定」に限っているから、大阪を知らない人にはなぜそこまでこだわるのかわからないと思う。
 「舞台探訪」が好きなわが趣味と思ってください。

 妻を亡くした作家・浦上映生はミナミに出たついでに、1時間半ほどの道を歩いて帰ろうと思う。歩き慣れたコースは退屈なので、上町台の斜面で横道にそれる。……ここから、N区の「聖天山」付近の、路地が込み入った一帯に迷い込む。そこは少年時代に住んでいたことがある地区である。そこで浦上は「エイやんやないか」と声をかけられる。「エイやん」は昔の愛称であり、どうやらそこにはもうひとりの自分が住んでいるらしい……。
 一見多元宇宙ものだが、そこは一筋縄ではいかない。これは、その後の『いいかげんワールド』で「教え子の創作した世界へ入る」アイデアにもつながる着想である。
 さて、その異世界へ入り込む浦上の「足取り」であるが、これが極めて具体的に書かれている。なるほどこういうコースかとイメージが浮かぶのだが、「どこかおかしい」のである。
 確かに実際に歩けるコースに見えて、どこかに違和感がある。
 そのために現地調査してみることにした。
 以下、作品に即して検証してみる。

 まず、浦上はミナミの「アーケードにおおわれた商店街」でパチンコをし、御堂筋にでて、「百貨店によって、東西に分けられる」道を東に進む。
 これは間違いようがない。
 戎橋筋商店街のパチンコ屋(千日前通北の「ナンバ一番」と断定できる)を出て、すぐ南の「難波本通」のアーケードから御堂筋に出る。高島屋前を東に曲がり、日本橋方面に歩く。
 そして(ここからが微妙だが)「四十分以上も歩き続けて」「高速道路が頭上に架かる広い坂道の下」で「自動販売機のスポーツドリンクを買」う。そこは「バス停で、ベンチもある」。浦上は「吸い殻入れもあった」ので、ベンチに座り、タパコを二本吸う。ここに少年時代(戦時下)の回想が挟まれる。
 このバス停はどこにあるのか。
 浦上はこう思う。そこから「坂を高台の上へと登り、そこから南へ行く」と、難波とは「別の繁華街を通り抜け、しょっちゅうバスで通る道を、家へと帰るわけなのだ。」
 これは読み間違えようがない。
 バス停は上町台の下、下寺町(松屋町筋)のどこかにある。そこから坂を上がって谷町筋に出る。そこを南に行くと繁華街(阿倍野)で、そこからバスで阪南町へというのがいつものコースである。
 これはほぼ特定できる。日本橋東の阪神高速・夕陽丘出入り口付近。
 このすぐ東が下寺町で、そこから大阪女子短大(今は夕陽丘学園)に沿って谷町筋まで「広い坂道」(学園坂)がつづいている。
  
 が、この高架下にバス停はない。ベンチも自販機もない。
 また、近くの松屋町筋は南行きの一方通行で、赤バス・天王寺ループの標識はあるが、高速下にはなく、ベンチもない。
 それに、ここは難波から徒歩10〜15分の距離である。40分はかからない。
 ただし、浦上は「最短コースではない」「あまり通ったことにない道に、衝動的に入ったりしていたから」40分かかっても不思議ではない。

 このバス停からの浦上の行動は次のようになる。
 浦上は坂道を上りはじめる。
 「広い坂には、いくつか横道がある」「東の方のA区と、西に広がるN区との、いわば境界線のような道なのである」
 ここが下寺町なら、天王寺区と浪速区の境界なのである。
 ところが浦上が「女子ばかりの学院と聞いている」学校あたりから入った横道は、進むにつれて「右手は、ガードレールが繁った雑草に大方覆われている崖の縁」となる。
 「下方にトタン屋根や瓦屋根がひしめき、スレートぶきの工場や小さなビルが点在する」
 崖の下へは「錆びた鉄の仕切りを中央に持つセメントの階段」が所々にある。
 浦上はその階段を下りて、狭い路地の入り組んだ一帯に入り込む。
 「道は細くなり、分岐してはまた分かれ道に」なる。
 気がつくと「左手に樹々の茂った斜面、右に古い家の並ぶ細い曲がった道」に来ていて、その斜面が「聖天山――大聖天歓喜天のある丘だと」わかるのである。
 聖天山は阿倍野区にあり、西成区との境界にある。
 こうなると、バス停は下寺町ではない。
 聖天山の北西方向のどこかということにならないか。
 下寺町から、谷町筋ではなく、「崖の下」を聖天山へ移動しようとしたら、天王寺公園か新世界かもっと南で飛田あたりを通過しなければならないからである。
 そこで、阪堺線で聖天まで行って、周辺を歩いてみた。
 そして、モデルになった場所はおそらくここだろうという場所を発見した。

 阿倍野四丁目交差点から西へ下る長い坂道の途中、阿倍野区と西成区の境界で、14号松原線の高架がかぶさる一角である。
 
 ただし、ここにも現実のバス停はない。
 ここから坂道を上り、右に曲がる。
 阿倍野霊園の西側を抜けると左手に大谷高校がある。
 ここを過ぎると、右手にガードレール。
 崖の下には屋根がひしめき、「セメントの階段」が所々に設けてある。
 崖下から見上げると、東は小高い台地である。
 まさに「エイやん」で描写してあるとおりの景観である。
  
 そして、軽自動車がすれ違うのも難しい入り組んだ路地を南(と思われる方向)に歩くと、5、6分で聖天山の下に出る。
 
 ここからの町並みの描写は、まったく「エイやん」の通りである。
 もしバス停が阿倍野交差点の坂下だとしたらどうだろう。
 難波から直線距離で約3キロ。「40分以上」歩いていたのだから、ここであっても矛盾はないのである。
 フィールドワークはここまで。

 以下はボケかけのアタマを絞っての考察である。
 @バス停は架空の存在である。
 上記の2ヶ所以外にもいくつか検討してみたが「高速道路下でベンチと吸い殻入れ、近くに自販機があるバス停」は発見できなかった。
 これは作者の創作であろう。
 だが、このバス停、いかにもありそうだ。「ありそうでない」……これは眉村というペンネームの由来がそうであり、まさに作者らしいセンスではないか。
 Aバス停は2ヶ所どちらにあってもよい。重なっていると考えるのが適切。
 バス停でタバコを「二本」吸う、その間に長めの回想が挟まれるため、読者はバス停の位置を気にしなくなっている。
 いつものコースを帰るとしたら「下寺町」であり、横道にそれてみようと思ったら「阿倍野下」……まるで波動関数の収縮のごとく、浦上がどちらに歩き出すかでバス停の位置が決定されるのである。
 小説作法としては、新世界を横切ることで小説の流れが変わるのを避ける措置でもあったのだろう。
 このバス停はまさに異世界への入り口であり「異世界分岐点」というタイトルにふさわしいアイデアである。
 Bこれはユニークな「秘境の作り方」である。
 ここで思い出したのは、半村良氏の「秘境の作り方」である。
 確かこんな方法だった。
 2万分の1の地図を買ってくる。秘境を作りたいあたりにカミソリでスパーッと切れ目を入れる。地図を折り曲げると船型の空間ができる。そこに秘境を設定する、というのである。
 「嘘」の大家の発言だからどこまで本当かはわからないが、『黄金伝説』の描写はあきらかにこの方法で書かれていると思った。
 「エイやん」の場合はどうか。
 逆の操作がなされているのである。
 大阪市の地図のうち、浪速区の南半分と西成区の北の一角を切り取って、「天王寺区と浪速区の境界」と「阿倍野区と西成区の境界」がつながるように貼り合わせる。
 これで「幻のバス停」が重なるのである。

 と、ここまで考えて、カンニングという手もあるなと思いついた。
 作者に直接訊く方法である。
 しかし、おそらく苦笑して「フィクションだから」といわれるであろう。
 ま、一応ここまで調べたのだから、「エイやん」を森下一仁さんの日本全国ご当地SFリストに登録させていただくことにしよう。
(2006.9.20)


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