映画『日本沈没』
公開されてしばらく経ったから、そろそろ感想書いてもいいかな。
5月29日のプレミアム試写会で見せていただいたのだが、一般公開前にあれこれ書くのはまずいかと控えていたのである。
CGは良くできているし、何よりも音響に迫力があり、架空の映像を楽しむ分にはなかなよく出来た映画である。
ただ……一言でいえば、脚本が決定的によくない。
ひとつは「SFとしての構造上の欠陥」、もうひとつは「ドラマとしての欠点」である。
SF構造の欠陥というのは、沈没理論の扱い……列島が急速に沈むメカニズムである。原作では日本列島下を熱が急激に移動する「トンネル現象」(架空理論)である。これが映画では3つ出てくる。個別の説明はしないが、「メガリス」と「バクテリア」と「デラミネーション」である。映画では「メガリス」の異変によって列島は10年後に沈むということがまず前提になっている。それが「バクテリア」によって急加速することになり、最後にデラミネーション」によって○○○○となる。
これらの「理屈」はこれでいいと思う。が、これらが3段階にわけて出されるために、「ひとつのSF的仮構をリアルで拡大させる」という「SFの基本」が崩されることになり、怪獣ものの最後に秘密兵器が登場するのと同じ、要するにご都合主義的展開になってしまう。
映画だからといえばそれまで。SF(小説)と同じ構造を要求するのはヤボかもしれない。
欠点はむしろ「ドラマとしてダメ」な点だろう。
映画は「沈没が10年後」という前提で始まっている。原作は上下2巻。上巻が深海調査で、沈没が決定的となる。下巻が脱出計画と破滅描写。主人公・小野寺が活躍するのは主に上巻である。
映画は「下巻」から始まる。と、小野寺の立場は、D計画に巻き込まれた一民間人で、しかも深海艇操縦の仕事はなくなってしまう。……ところが、映画はこの設定のみ、原作に忠実なのである。
草ナギ演じる小野寺は、特に仕事で活躍するわけでもなく、プータローみたいに周囲をウロウロしたり酒を持って避難地慰問したりするだけ。これじゃいんかというので、最後にとってつけたような「活躍の場」が与えられるのだが……これでは全然魅力なし。
これは皮肉でいってるのではない。原作では、小野寺が次のようにいう場面がある。
「あと、この本部でぼくが役に立つようなことはないでしょう?」「ぼくは、皆さんとは、同志的結合でむすばれていましたが――民間会社を無断退職した風来坊で……資格としては、臨時雇いの潜水艇の操艇手です」
この場面は下巻の中程(168ページ)、全体の2/3が過ぎたあたりである。
映画はここから始まるから、小野寺がフリーターに見えるのは当然なのである。
一方、玲子はどうか。原作では気ままに暮らす上流階級の娘。だからこそ、周囲の文化的エリートにはない「海のにおいのする」小野寺に惹かれる。これはむつかしい役柄だ。
映画では幼児期に阪神大震災を経験したレスキュー隊員という設定になっている。これはうまいと思う。冒頭のヘリから降下してくる場面は颯爽としていて、なかなか魅力的。
ところが、これが「訓練中に骨折して休職」という設定はなんじゃいな。歌之助師匠のセリフを借りれば「笑てしまいますな」
で、「仕事のない操艇手」と「怪我で休職のレスキュー隊員」の恋愛という、ずいぶん間の抜けた展開になってしまった。これではドラマになりまへんがな。
それぞれの使命(仕事)との板挟みになりつつ惹かれあってこそのドラマでしょうが。
役者は悪くないだけに、この脚本の弱さが惜しまれる。
SF的設定や、造り酒屋の場面など、いわゆる「つっこみどころ」はたくさんあるが、まあ、そんなのはビールでも飲みながら仲間内でやるのが面白いので、ここでは書かない。ひとつ今も気になるのは、冒頭(沼津の場面)での富士山の噴火。回想でも予告でもないようで、あれは編集ミスだったのだろうか。謎のままである。※
(2006.7.29)
※これはわが勘違い。富士山ではなく天城山の噴火であった。この部分のみ原作の冒頭なので間違えました。お詫びして訂正します。