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  疎開小説を読む(その2)

佐江衆一『遙か戦火を離れて』(大空社 1994年)

 文芸春秋05.2月号で小林信彦氏が「集団疎開という地獄」を書かれている。
 小林氏は、この時点では『波』に疎開体験を描く『東京少年』を連載中で、編集部に「(集団疎開体験)を『あの時は楽しかった。本当の田舎生活を送れた』と思っている人もあるらしく」「編集部に非難の投書がくるらしい」とある。
 「楽しかった」人との違いがどこからくるかというと「米がとれる県とそうでない県では、あとで、とんでもない格差が生じるのであるが、その時点ではわからない」とあって、あ、なるほど納得した。
 で、しばらくして佐江衆一氏のエッセイを読んでいたら、次の一行が目にとまる。
 食卓日記に「60年前の学童疎開先の寺が贈ってくれた白石温麺(を食べる)」(週刊新潮05.3.3号)とある。
 60年、疎開先の寺と交流がつづいているとすれば、これはおそらく「怨み」はないはずで(「楽しかった」組か?)、それに学童疎開体験があるなら、佐江氏はそれを書かれているのではないか。
 そう思って調べるまで、ぼくはこの本の存在を知らなかった。
 この本は1976年に角川から発行されたものの再刊。
 作者は昭和19年夏から翌年の終戦まで、宮城県白石(蔵王の麓)に学童疎開する。その体験が、30年後の再訪、同窓会、引率した先生との再会と、当時先生が記録した日誌(食事のメニューなど)……など、多面的に検証しつつ、子供の世代に語り伝えるという視点で書かれている。
 むろん「楽しかった」小説ではない。
 暴力でクラスを支配する「大島」や、苛められ役で不幸な死をとげる少年など、『冬の神話』のキャラクターと重なるところがあり、これは(疎開世代とはちがうが)自分の小学時代を思い出しても当てはまる構図で、構造的なものだろう。
 佐江氏の語り口は冷静だが、次のようなところが凄い。
 同窓会から外された「大島」が後日電話してくる。大島は空襲で片手を失っている。留守だったから夫人が対応する。
 大島は「下級生にずいぶん辛い思いをさせたらしい」が「覚えていない」、しかし未だに憎まれているのなら「そういうことをした自分を認めたい」「いまのように憎まれつづけたまま生きていくのは耐えられない」という。
 これに対して、夫人はこう伝える。
 「うちの主人は電話に出てあなたと話をするとすれば、きついことは一言もいえないでしょうし、またいわないでしょう。笑ってそんなことはもうすんだことだというかもしれません。でも、決してあなたを許したりする男ではありません。あの人はそういう人です」「もっと一人で考えたいのでしょう。その点ではとても強情ですし。心の冷たい人ですから」
 この前後の記述、その怒りの深さが静かに伝わってくる凄みのある描写である。
 後記にある……「(学童集団疎開は)幼い生命を守るために安全な場所へ子供を移したにはちがいないが、目的は『重要都市の防空体制強化』と『次代戦力の培養』であった。……いつ終わるとも知れぬ飢えと寒さと孤独な生活を強いられたのである。これをなぜ、人生論的に解せようか。」
 佐江氏はこの作品を書く20年前(1955年頃)に同じ題材で『刈田盆地』という作品を書き、23歳の誕生日に「100部ほどタイプ印刷の本をつくった」という。氏の創作活動の原点なのである。
 ……疎開先の寺との交流は、たぶん同窓会が縁で復活したのであろう。これはぼくの想像である。
 
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